静岡県西部での事業統合
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日英水電では小山発電所建設中にあたる1911年7月に浜松電灯より、同年12月に島田電灯よりそれぞれ事業を譲り受けた。さらに小山発電所完成の2年後、1914年(大正3年)3月には気賀電気からも事業を譲り受けている。3社はいずれも静岡県西部に供給区域を有する電気事業者であった。各社の概要は以下の通り。 浜松電灯株式会社 浜松電灯は1904年(明治37年)1月25日、浜名郡浜松町(1911年の市制施行で浜松市)に資本金4万円で設立された。社長となった鈴木幸作(醤油醸造業)や山葉寅楠ら浜松の有力者による起業である。浜松駅南側に石炭火力発電所を設け、浜松町と周辺4村を供給区域として同年12月1日に開業した。1910年には電灯数が約6500灯に達し、吸入ガス機関(サクションガスエンジン)を原動機とするガス力発電所の新設準備に着手している。 日英水電では取締役の中村円一郎が浜松電灯との交渉にあたり、その結果1911年3月事業買収について合意に達した。買収価格は浜松電灯の払込資本金10万円に対し17万5000円である。浜松電灯は1911年6月30日付で解散し、翌7月1日付で日英水電は浜松市伝馬に支店を開設した。 島田電灯株式会社 島田電灯は1909年(明治42年)2月20日、志太郡島田町に資本金5万円で設立された。島田町の有志によって起業されたもので社長は秋野雅太郎(元島田町助役)が務める。開業は同年12月12日。町で盛んな製材業・製函業で生ずるおがくずをボイラー燃料として活用する、という珍しい火力発電所を電源としていた。 島田電灯では町内に2000灯余りの電灯を供給したが、発電余力がなく大井川対岸の榛原郡金谷町への供給拡張ができないでいた。島田電灯側から日英水電の中村円一郎へ交渉を持ち掛けた結果事業譲渡の運びとなり、1911年12月4日付で島田電灯は解散し、日英水電島田営業所へと姿を変えた。 なお、1年半後の1913年2月1日付で日英水電は島田町内に支店を設置したが、翌1914年4月25日付で浜松支店とともに廃止している。 気賀電気株式会社 気賀電気は1911年1月26日、引佐郡気賀町気賀(現・浜松市北区)に資本金4万2500円で設立された。社長は海野平太郎(静岡の電気商)が務める。開業は同年11月23日。当時小規模発電方式として普及していた吸入ガス機関によるガス力発電所を電源とし、気賀町・中川村・金指町に電灯約1500灯を供給した。 『静岡県引佐郡誌』には会社は1914年2月1日付で日英水電へ買収され同社気賀営業所となったとある。登記によると気賀電気は同年3月15日解散した。統合後、日英水電では1914年7月に気賀変電所を完成させ、同地域での供給力強化を図っている。 日英水電では、1912年6月の小山発電所完成にあわせて送電設備として浜松・島田・金谷・川崎の4変電所を新設、発電所との間を送電電圧35キロボルトの送電線で結んで送電を始めた。気賀電気買収後の1914年5月時点での日英水電は浜松市・浜名郡を中心に引佐郡・磐田郡・小笠郡・榛原郡・志太郡の各一部にまたがる供給区域を持ち、加えて磐田郡二俣町の天竜電力、周智郡森町の周智電灯、小笠郡掛川町(現・掛川市)の松阪水力電気遠江支社、榛原郡川崎町(現・牧之原市)の東遠電気に対しても電力を供給した。特に受電4社のうち天竜電力以外の3社は自社発電所を持たず日英水電からの受電に電源を依存する。
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