電気化学事業
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1920年(大正9年)春に発生した戦後恐慌の影響で電気の需要が停滞したが、一方で稼働間近な発電所があって余剰電力が発生すると予想されたことから、九州水力電気では余剰電力を活用した化学工業への進出を決定。1921年(大正10年)12月1日、電力供給先であった日本窒素肥料日出工場(大分県速見郡川崎村=現・日出町、1915年6月開設)を買収してカーバイド(炭化カルシウム)の製造を始めた。さらに翌1922年(大正11年)4月27日に日本電化工業を合併し、同社が神奈川県の山北に置いていた工場設備一切を日出工場へと移設して11月より塩酸カリ(塩化カリウム)の製造も開始した。しかしカーバイド・塩酸カリともに市況が振るわない分野で、事業の収益は総収入の数パーセントを占めるのみで鉄道事業収入にも及ばず、なおかつ利益率も低迷した。 直営以外では、1923年(大正12年)12月1日に大分電気工業(資本金100万円)という化学メーカーの株式を買収し傘下に傘下に収めた。同社は1919年(大正8年)4月に、大分県大分郡阿南村(現・由布市)にあった渡辺与三郎の塩酸カリ工場を買収しカーバイドや酸素・水素ガスを製造する目的で設立。買収後の1926年(大正15年)12月1日に社名を九州電気工業株式会社に改めた。九州水力電気では兼業整理の方針に従ってこの九州電気工業へ化学事業を集約することとなり、1927年4月1日より日出工場の経営を同社に委託した。また系列の筑後電気も1926年12月より福岡県小倉市にあった酸素工場の経営を同様に委託している。 九州電気工業では自社製カーバイドを原料とする酢酸製造を計画し、日出工場にて1931年(昭和6年)5月、月産30トンの酢酸製造設備を新設した。しかし2年後の1933年(昭和8年)7月には操業を休止してしまう。その後酢酸製造への進出を狙う電気化学工業(現・デンカ)がこの設備に着目し、1940年(昭和15年)6月にその買収を決定した。そのため酢酸製造設備は1942年(昭和17年)に解体され、9月までに資材を含めすべて電気化学工業青海工場(新潟県)へと運ばれた。 九州電気工業は戦後もアセチレン製販会社として存続するが、1974年(昭和49年)5月に高圧ガス工業へ合併された。
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電気化学事業
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第一次世界大戦中の電気化学工業ブームに乗じ、九州電気軌道は余剰電力を活用した塩酸カリ(塩化カリウム)の製造販売を企画し、急遽工事費16万円を投じて小倉市鋳物師町に工場を建設、1916年(大正5年)4月より製造を開始した。塩酸カリはマッチの原料で、ロシア輸出を中心に国内や朝鮮半島、満州、南洋方面へ出荷した。輸入品の途絶もあり市価が高騰していたことから業績は好調で、1916年11月末までの短期間で収入は46万円7千円に達し支出・建設費利息・償却費を差し引いても5万4千円の純利益を生じた。 第一次世界大戦が終結すると日本製品の需要は減少し、市価の低落で1920年(大正9年)下期の純利益は7千円に減少、さらに1921年(大正10年)上期には1万8千円の欠損を生じた。このことからこの電気化学事業は1921年上期限りで休止となった。
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