防波堤の解体とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 18:42 UTC 版)
「沢風 (駆逐艦)」の記事における「防波堤の解体とその後」の解説
小名浜港の魚市場前に沢風を用いた防波堤が完成してから、1年後の1949年(昭和24年)2月頃に魚市場の拡張に伴い、市場拡張の妨げとなる沢風防波堤を撤去する計画が立案され、1965年(昭和40年)10月に防波堤の解体・撤去作業を開始した。 その際に沢風からは、250トンもの鉄材スクラップが出ることが分かり、福島県は沢風の鉄材スクラップを競争入札にし、錨、三崎公園に保管・展示されている蒸気タービンなども含め、当時は売却が検討された。 この当時、沢風の乗組員が多く存命しており、記念として、一部を残したいという声が出たため、いわき市側で、申し出るように要請。 この話を聞いた、旧海軍軍人および軍属で結成されている海桜会が沢風の艦先をそのまま残すことを検討したが、大きすぎるため断念。代案としてスクリューを残すことを申し出た情報はあるものの、長年埋没していた影響もあり、取り出せるかは不明とされていた。 この他にも県に対し、旧海軍出身の方々の陳情が提出されたため、いわき市名義でスクラップが払い下げられ、展示などの活用は地元の海友会に一任されることとなった。 解体後、沢風のスクラップはいわき市小名浜市民会館前の広場に活用が決定するまで、一時保管されることとなる。 しかし、その後は約10年近くに渡り、公民館前に風雨をその身に受けながら放置されることとなり、地元民にすらその存在を忘れられた。 屋外にスクラップが設置されてから時は流れ、社団法人海洋学校調査部が、防波堤となった沢風および、汐風を調査していた。その過程で公民館前に沢風のスクラップが放置されていることを知り、地元の海友会を通じ永久保管に乗り出す。 また、市民が集う公民館の前に廃材スクラップが長年放置されていることについて、市民からの批判・反対の声が寄せられていた時期と重なっており、市が古物商へ約15万円程度で売却する寸前であった。 そこへ海友会などの元軍人たちが駆けつけ、当時の大和田弥一市長に記念碑設立の趣旨を説明、協力を要請することで売却は一時中断。 一行の説明を聞いた大和田市長が、海友会に無償でスクラップ払い下げ、記念碑を設立する予定の三崎公園の市有地を提供することを快諾したことで、ようやく沢風のスクラップを用いた記念碑が建立することが決定される。 1973年(昭和48年)11月3日に当時の県海友会会長が吉田真治であり、元教官であるという縁から、高松宮宣仁親王を招き、艦魂碑除幕式が執り行われた。 また、野外展示されている沢風の蒸気タービンの土台部分のプレートに記載されている「艦魂」の文字は、高松宮宣仁親王が筆を取られたものである。 なお、現在の記念碑は沢風の蒸気タービンのみが展示されており、その他に残存していたはずの錨など沢風のスクラップが、その後どのように活用されたかなどの用途は不明のままである。 余談ではあるが沢風の防波堤であった際の埋設地点は、現在の魚市場前の防波堤よりも、半分ほど魚市場側に近い距離であり、現在の防波堤地点ではない。
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