開業 - 戦前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 17:21 UTC 版)
阪急電鉄のルーツというべき路線である。JR福知山線の前身で、尼崎を起点とし福知山・舞鶴方面への鉄道路線を営業していた阪鶴鉄道の大阪直接乗り入れ計画を、同社国有化の際に引き継いだ箕面有馬電気軌道が1910年に梅田駅(現在の大阪梅田駅) - 宝塚駅間を開業させたのが始まりである。 当初はその名の通り、宝塚からさらに西進し有馬温泉のある神戸北郊の有馬まで敷設する計画だったが、宝塚 - 有馬は宝塚の開発に注力していたこともあって1913年に断念している。1908年8月5日に提出された「宝塚有馬間工事施工認可申請書」では、勾配は神戸電鉄や南海高野線に匹敵する50パーミル、曲線半径は最小40.2メートルが想定されていた。電車にとっては明らかな難路であり、これを普通の線路にするには、そのレベルを上げるほど建設費が高騰するのは確実だった。 開業当初は、畑以外何もないようなところを走る区間が長いことから「ミミズ電車」と皮肉られ、採算性に疑問の声も多かった。しかし、同社の専務(実質の会社代表で、後に社長となる)であった小林一三は路線が開業するやいなや沿線開発を積極的に推し進め、住宅地や遊楽施設をつくり上げ、折からの大阪人口の増加と職住分離の習慣化によって乗客獲得に成功する。これは、日本の私鉄経営モデルの模範となった。 なお神戸本線が1920年に開業した後は、しばらく乗客数が低迷した同線のほうへ社の重点が置かれるようになり、同線の中古車が宝塚本線に回されたりすることもあった。優等列車の運転も、神戸本線より2年遅れて実施されている。さらに梅田駅 - 十三駅間では宝塚本線と神戸本線の運賃が1942年まで異なっていた(神戸本線のほうが数銭高く、基本的に同区間の移動では宝塚本線を使う必要があった)。また、池田駅以西の利用客は長らく少なく、平井駅(後に山本駅へ統合して廃止)・山本駅・売布神社駅などといった駅のプラットホームは2両編成が停車する分の長さしかなく、3両編成の電車は通過していた。さらに2両編成の場合でも、車掌に対して降りる旨を伝えておかないと、通過することがあった。 1932年(昭和7年)より、宝塚本線にも急行が設定されるようになった(所要時間35分)。数年後にはわずかながら所要時間を短縮し、最新鋭の320形電車を投入するなどの積極策に出ている。これは、阪神系列の阪神国道自動車(阪国バス、現在の阪神バス)が、大阪 - 宝塚間に設定した直通バスと補完し合うものであった(阪国バスには阪急も出資していた)。
※この「開業 - 戦前」の解説は、「阪急宝塚本線」の解説の一部です。
「開業 - 戦前」を含む「阪急宝塚本線」の記事については、「阪急宝塚本線」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書から開業 - 戦前を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。

- 開業 - 戦前のページへのリンク