銃隊を組織し近代式練兵を行う
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「迅衝隊」の記事における「銃隊を組織し近代式練兵を行う」の解説
7月17日(太陽暦8月16日)、中岡慎太郎の意見を参考にした乾退助によって土佐藩銃隊設置の令が発せられる。 7月22日(太陽暦8月21日)、乾退助は古式ゆかしい北條流弓隊は儀礼的であり実戦には不向きとして廃止し、新たに銃隊編成を行い、士格別撰隊、軽格別撰隊などの歩兵大隊を設置。近代式銃隊を主軸とする兵制改革を行った。さらにこの日、中岡慎太郎が、土佐藩大目付(大監察)・本山茂任(只一郎)に幕府の動静を伝える密書を送る。 (前文欠)又、乍恐窃に拝察候得者、君上御上京之思食も被爲在哉に而、難有仕合に奉存候。然此度之事、御議論周旋而己(のみ)に相止り候得者、再度上京の可然候得共、是より忽ち天下之大戰争と相成候儀、明々たる事に御座候。然れば、實は上京不被爲遊方宜敷樣相考申候。斯る大敵を引受、奇變之働を爲し候に、本陣を顧み候患御座候而は、少人數之我藩別而功を爲す事少かるべしと奉存候。乍恐、猶名君英斷、先じて敵に臨まんと被爲思召候事なれば、無之上事にて、臣子壹人が生還する者有之間敷に付、何之異論可申上哉、只々敬服之次第也。此比長藩政府之議論を聞に、若(し)京師(に)事有ると聞かば、即日にても出兵せんと決せり。依て本末藩共、其内令を國中に布告せり。諸隊、之が爲めに先鋒を争ひ、弩を張るの勢也との事に御座候。右者、私内存之處相認、御侍中并、乾(退助)樣あたりへ差出候樣、佐々木樣より御氣付に付、如此御座候。誠恐頓首。(慶應三年)七月廿二日、(石川)清之助。本山(只一郎)樣玉机下。 匆々相認、思出し次第に而、何時も失敬奉恐謝候。 中岡は本山宛の書簡に「…議論周旋も結構だが、所詮は武器を執って立つの覚悟がなければ空論に終わる。薩長の意気をもってすれば近日かならず開戦になる情勢だから、容堂公もそのお覚悟がなければ、むしろ周旋は中止あるべきである」と書き綴っている。 7月27日(太陽暦8月26日)、中岡慎太郎が、長州の奇兵隊を参考として京都白川の土佐藩邸に陸援隊を結成。 8月6日(太陽暦9月3日)、乾退助は東西兵学研究と騎兵修行創始の令を布告。長崎で起きたイカルス号水夫殺害事件の犯人が土佐藩士との情報(誤報であったが)があったため、阿波経由で英艦が土佐に向かうこととなり、英公使・ハリー・パークスが乗る英艦バジリスク号が、土佐藩内の須崎に入港。土佐藩は不測の事態に備え、乾退助指揮下の諸部隊を砲台陣地、および要所の守備に就かせた。 8月7日(太陽暦9月4日)から翌8月8日(太陽暦9月5日)にわたり、須崎港内に碇泊した土佐藩船・夕顔丸の船上で、長崎英水夫殺害事件の談判が開かれる。土佐では主に後藤象二郎が交渉を行い、前藩主・山内容堂がパークスと会見した。関係者との協議でイカルス号水夫殺害事件における土佐藩や海援隊への嫌疑が晴れる。
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