鉱毒事件救済活動へ参加
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/26 14:46 UTC 版)
1901年(明治34年)12月、田中正造が足尾鉱毒事件について直訴したことを新聞報道で知り衝撃を受けた黒澤は、田中が宿にしていた東京市芝口二丁目(後の東京都港区新橋)にある「越中屋」という三等旅館を訪れ、田中と面会する。突然の来訪にも関わらず快く自分を受け入れ、事件の事を丁寧に説く田中の人柄に感銘し、田中と一緒に農民救済に関わることを決意した。 まずは田中の勧めで内村鑑三率いる足尾銅山鉱毒災害地学生視察団に加わり現地を見て、更に独自での現地視察も行った。視察後「学生鉱毒救済会」が東京に作られると、これに参加し、街頭演説や募金活動を行った。だが、政府の圧力で学生運動が下火になるのを目のあたりにした黒澤は、被害地の青年達自らが立ち上がるべきではないかと考え、農民が自主的に団結し行動する「青年行動隊」の組織化を目論んだ。この実現のため、学業を放り出し被害地を回り、集会・演説会、中央の名士を招いての懇親会の開催などをして同士集めに奔走した。このような果敢な行動から黒澤は"小田中"とも呼ばれるようになった。 しかしながらこの活動を好ましく思わなかった警察は黒澤を要注意人物として監視した。遂に黒澤は、反対活動をするよりも示談にした方が良い、との自身とは異なる意見を持つ被害地内の農民の家に説得に上がり込んだところを、家宅侵入罪で1902年(明治35年)3月5日に逮捕され、前橋監獄に勾留されてしまった。勾留は6カ月間に及んだが、田中が今村力三郎という有力な弁護士をつけてくれたおかげで無罪となる。この事件で未決囚として収監中に、田中の知人でキリスト教布教団体「婦人矯風会」副会頭の潮田千勢子から差し入れられた聖書を読み、感化を受け、後の1909年(明治42年)に洗礼を受ける契機となる。 無罪となった後も活動に没入していたが、黒澤の将来を心配した田中から学問を修めるように説得され、当時籍のあった京北中学校(後の東洋大学京北中学高等学校)に1903年(明治3年)12月に復学し、1905年(明治38年)3月に卒業した。なお修学資金は田中からの育英資金恵与の懇請を受けた栃木県の篤志家、蓼沼丈吉からのものであった。 卒業後、このまま社会活動を続けてゆこうかどうか迷っていた矢先、母の急死という不幸に見舞われる。幼い弟妹を養う立場に立たされた20歳の黒澤は心機一転、北海道行きを決意する。
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