鉄道省海の家、湘南遊歩道から鵠沼プール開設へ
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「湘南海岸公園 (藤沢市)」の記事における「鉄道省海の家、湘南遊歩道から鵠沼プール開設へ」の解説
関東大震災の復興も進んだ1928年、湘南海岸一帯に神奈川県の御大典記念事業として「魚附砂防林」のクロマツの植林が始められた。その翌年1929年に神奈川県知事に就任した山県治郎は、湘南海岸一帯の国際観光地化を目論んだ(この年は小田急江ノ島線が開通した年でもある)。 これが戦後の湘南海岸公園に続く神奈川県主導による湘南海岸観光地開発の始まりであり、その中心をなしたのが「湘南海岸公園道路」通称「湘南遊歩道路」と呼ばれる神奈川県道片瀬大磯線の敷設である。1930年に企画され、翌1931年に着工されたこの道路は、2車線のコンクリート舗装の幅広い自動車道の両側に「逍遙道」という歩道が砂防林の中に続き、鵠沼・片瀬間には「乗馬道」も設けられるという画期的な観光道路であった。 一方、藤沢町も鉄道省に働きかけて、1931年に鵠沼海岸に恒久的な「海の家」を開設させ、各交通機関も直通列車や納涼電車の運行、鉄道省海の家へのバス路線の新設など、海水浴客への足の便をはかった。 1935年、「湘南海岸公園道路」は相模川架橋を残して開通した(全通は翌年)が、その頃、都市計画神奈川地方委員会の「湘南海岸公園計画地域」答申を受けて、神奈川県都市計画課は、藤沢都市計画公園(鵠沼・辻堂・片瀬合計54.45ha)設計案を作成した。 1936年、藤沢町会は、1940年に予定されていた東京オリンピックに備えて、県知事に鵠沼海岸プール設置要望の意見書を提出し、県会は鵠沼プール建設のための「風景地開発費」予算案を無修正可決し、翌年には着工した。 県営鵠沼プール完成直前に起こった日中戦争は泥沼化し、日本は東京オリンピックを返上せざるを得なかった。所期の目的を失ったプールは県から藤沢町に譲渡され、「町営鵠沼プール」となった。 1939年、鵠沼海岸の名旅館「東屋」が廃業。それでも1940年藤沢が市制を施行した頃までは海水浴場の賑わいは残っていたが、太平洋戦争に突入すると、鵠沼海岸での海水浴は警察の許可を得た市民に限られるという時代になる。 戦争が激化すると、砂防林のクロマツは松根油試作の原料と称して根こそぎになったり、燃料用に盗伐されたりして失われていった。このため、「湘南海岸公園道路」は砂に埋もれ、自動車の通行は困難になったし、戦後続いた大型台風の際には、高潮が自動車道路を洗うことさえあった。
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