鉄道省海の家、湘南遊歩道から鵠沼プール開設へとは? わかりやすく解説

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鉄道省海の家、湘南遊歩道から鵠沼プール開設へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/13 08:03 UTC 版)

湘南海岸公園 (藤沢市)」の記事における「鉄道省海の家、湘南遊歩道から鵠沼プール開設へ」の解説

関東大震災復興進んだ1928年湘南海岸一帯神奈川県御大典記念事業として「砂防林」のクロマツ植林始められた。その翌年1929年神奈川県知事就任した山県治郎は、湘南海岸一帯国際観光地化を目論んだこの年小田急江ノ島線開通した年でもある)。 これが戦後湘南海岸公園に続く神奈川県主導による湘南海岸観光地開発の始まりであり、その中心をなしたのが「湘南海岸公園道路通称湘南遊歩道路」と呼ばれる神奈川県道片瀬大磯線敷設である。1930年企画され、翌1931年着工されこの道路は、2車線コンクリート舗装幅広い自動車道両側に「逍遙道」という歩道砂防林中に続き鵠沼片瀬間には「乗馬道」も設けられるという画期的な観光道路であった一方藤沢町鉄道省働きかけて、1931年鵠沼海岸恒久的な海の家」を開設させ、各交通機関直通列車納涼電車運行鉄道省海の家へのバス路線新設など、海水浴客への足の便をはかった1935年、「湘南海岸公園道路」は相模川架橋残して開通した全通翌年)が、その頃都市計画神奈川地方委員会の「湘南海岸公園計画地域答申受けて神奈川県都市計画課は、藤沢都市計画公園(鵠沼辻堂片瀬合計54.45ha)設計案作成した1936年藤沢町会は、1940年予定されていた東京オリンピック備えて県知事に鵠沼海岸プール設置要望意見書提出し県会鵠沼プール建設のための「風景地開発費予算案無修正可決し翌年には着工した県営鵠沼プール完成直前起こった日中戦争泥沼化し、日本東京オリンピック返上せざるを得なかった。所期目的失ったプールは県から藤沢町譲渡され、「町営鵠沼プールとなった1939年鵠沼海岸の名旅館東屋」が廃業。それでも1940年藤沢市制施行した頃までは海水浴場賑わい残っていたが、太平洋戦争突入すると、鵠沼海岸での海水浴警察許可得た市民限られるという時代になる。 戦争激化すると、砂防林クロマツ松根油試作原料称して根こそぎになったり、燃料用盗伐されたりして失われていったこのため、「湘南海岸公園道路」は砂に埋もれ自動車通行困難になったし、戦後続いた大型台風の際には、高潮自動車道路を洗うことさえあった。

※この「鉄道省海の家、湘南遊歩道から鵠沼プール開設へ」の解説は、「湘南海岸公園 (藤沢市)」の解説の一部です。
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