鉄道省唯一の日本製3シリンダー機
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「国鉄C53形蒸気機関車」の記事における「鉄道省唯一の日本製3シリンダー機」の解説
C53形は予期通りの性能を発揮したので97両量産され、東海道本線・山陽本線において特急・急行列車牽引用の主力として運用された。設計主任は伊東三枝(国鉄DC11形ディーゼル機関車設計製造監督)。 しかし、構造が複雑で部品点数が多いため整備検修側からは嫌われた。前述の通り設計そのものもシリンダー周りを担当した島秀雄をはじめとして3シリンダー機構の理解が不十分であり、軽量化を重視しすぎたことで枠の剛性不足による亀裂多発、連動テコの変形による第3シリンダーの動作不良頻発と起動不能などといった重大なトラブルの原因となった。なお、台枠の亀裂多発はLNER A1形・A3形蒸気機関車でも軽量のために穴を設けたことで問題化していた。第3シリンダーの動作不良頻発は米国でも納品直後に発生しており、起動不能はオリジナル設計でも発生すると羅須地人鉄道協会の持つグレスレー式機関車で判明している。 前述の改悪に加え、軌間の狭さに由来する弁装置周りの余裕のなさが致命的で、特にメタル焼けが多発した第3シリンダー主連棒ビッグエンドへの注油(給脂)には想像を絶する困難 が伴うなど、およそ成功作とは言い難かった。 このため、お召列車や運転開始当初の超特急“燕”では、信頼性の面からC51形が使用されている。なお、燕の名古屋以西の牽引機は程なくC53形が担当することとなった(沼津電化後は沼津以西をC53形が担当)。 それでも戦前の時点では、鉄道省は本機を主として名古屋 ・明石・下関の3機関区を中心とする各機関区整備陣の自己犠牲を多分に含んだ 努力、浜松工場で行われた「10000粁限定」 や「標修車」 などの大規模な整備、修繕 のほか、大阪鉄道局では主として優等列車仕業を担当する明石機関区に、管内配属の本形式のうち最も状態のよいグループを集中配備する ことなどによって辛うじて使いこなしていたが、以後、鉄道省、国鉄を通じ、3シリンダー機関車の製造はおろか設計すらなくなり、日本の蒸気機関車は実用性ではるかに優れた2シリンダー機関車のみに限定されることになった。 もっとも、適切に調整・保守された本形式は、等間隔のタイミングで各シリンダが動作する3シリンダーゆえに振動が少なく、広くて快適な運転台、蒸気上がりの良いボイラ、牽引力の強さから、乗務員の評価と人気は高かったという。後続のC59形やC62形より乗り心地が良かったと伝えられている[要出典]。
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