金山古墳とは? わかりやすく解説

金山古墳

名称: 金山古墳
ふりがな かなやまこふん
種別 史跡
種別2:
都道府県 大阪府
市区町村 南河内郡河南町
管理団体
指定年月日 1991.02.15(平成3.02.15)
指定基準 史1
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 葛城山地の西側に源を発する小河川は、いくつもの狭い河谷平野形成し大和川流入する芹生谷の地は、葛城山西麓富田林市南方連なる丘陵との間にはさまれ東西キロメートル南北約四キロメートルあまりの中位段丘小台地で、谷の西方沿って千早川、ほぼ中央部梅川北流する。
 金山古墳は、この台地状をなす谷の奥部築造された二つ円丘からなる双円墳である。小字名を「墓添」と称し古くから墓として守られてきたため、保存状態極めて良好である。昭和二十一年大阪府教育委員会により北丘部分実測調査実施され、すでに盗掘受けていたが、横穴式石室と、その内部に置かれ縄掛突起有する二基の刳抜式家石棺確認し世の注目を集めるところとなった
 墳丘は、ほぼ南北に並ぶ大小二つ円丘並列させた形で築造された双円墳である。この二つ円丘のうち、南側のものは大きく東西四四・八メートル、高さ八・二メートル、北のものはやや小さく東西三〇・九メートル、高さ七・二メートル測る。両丘を合わせた墳丘主軸長は七七・九メートルとなり、ほぼ両丘の直径和に等しい。南北両丘には、外表施設として葺石認められる墳丘外周には、周辺の土地より一段低い水田一二メートル前後の幅でめぐっており、両円丘共通した周濠のなごりと思われる
 北丘には、南向き開口する巨石用いた横穴式石室築かれ玄室羨道とに二基の家形石棺安置されている。羨道入口部分は土礫の中に埋まっているため、測りうる石室全長一〇・〇六メートル玄室三・八メートルである。これに対し玄室幅は奥壁付近二・一メートル玄門部で二・四八メートル羨道一・七メートルである。また石室の高さは玄室二・八メートル羨道一・九メートル測る床面にはすべて礫を敷きつめ、玄室羨道との境にはやや大形礫石一列並べた区切りがあり、これによって玄室床面羨道より約一〇センチメートル高められている。
 石室中には玄室羨道とに二基の家形石棺礫石敷の床面上に安置されている。石棺はいずれ凝灰岩を刳抜いて作られたもので、には左右長辺に各二個、前後短辺に各一個縄掛突起があり、各部の稜には面取り施している。
 玄室内の石棺は、長さ二・三メートル、幅一・三メートル、高さ一・五メートルを測り、身内部には施されている。これに対し羨道にある石棺は、長さ二・二メートル、幅一・一メートル、高さ一・四メートル測る羨道部の石棺は、玄室内のものにくらべわずかに小さく作られているほか、縄掛突起形状新し様相認められ、おそらく追葬したもの思われる
 なお、北丘より規模大きな南丘にも石室築かれているものと想定されるが、現在のところ詳細不明である。
 出土遺物については、石室発見されときにはすでに盗掘を受け、二基の石棺身に盗掘孔が穿たれていて、残念ながらそのほとんどを失っていた。本古墳からの出土遺物は、わずかにガラス玉銀環馬具類、鉄刀、鉄鏃土器類等をあげうるにすぎない
 金山古墳は、確認された北丘の石棺形式副葬品からすると、六世紀後半頃に築造され、七世紀初頭頃に追葬が行われたものと考えられる全長七八メートル墳丘をもつ本古墳は、この時期のものとしては、大型古墳属するものであり、さらに築造当初形状整然と残した我が国ではきわめて類例少な双円墳であり、周濠を残す唯一の例である。よって当古墳史跡指定し、その保存図ろうとするものである
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