釈放と全人種選挙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 04:37 UTC 版)
「ネルソン・マンデラ」の記事における「釈放と全人種選挙」の解説
1990年2月2日にデクラークは、ANCほか禁止されていた政治団体の活動許可とともにマンデラ釈放を約束し、2月11日にマンデラは釈放される。釈放後の第一声はケープタウンの市役所のバルコニーで行われ、10万人の聴衆が彼の釈放を祝った。 釈放後、マンデラはANCの仮本部の置かれていたザンビアの首都ルサカに行き、病気療養中だった議長オリバー・タンボを代行する形でANC副議長に就任してアパルトヘイトの撤廃に向けて取り組むこととなった。また、アパルトヘイト撤廃に向けて理解を得るためにこの時期には外遊を精力的に行っており、1990年10月27日から11月1日までANC代表団を率いて訪日している。1990年5月には国民党政府との第一回予備会談がケープタウンで行われ、マンデラはANC代表として出席した。8月には第二回会議が行われ、マンデラは政治犯の釈放とアパルトヘイト諸制度の撤廃を新憲法制定のための前提として要求した。かわりに国民党からは政治暴力の停止要求が出された。全ての黒人を勢力基盤とするANCと、ナタール州に勢力を持ちズールー人を政治基盤とするインカタ自由党とは80年代後半から激しい武力抗争が続いていたが、マンデラ釈放後騒乱がさらに激しくなっていたためである。マンデラは抗争の中止を再三呼び掛けたが、効果はなく、抗争は悪化するばかりとなっていた。 一方国民党はこれを受け、1991年6月にアパルトヘイトの根幹法である人口登録法、原住民土地法、集団地域法などを廃止した。1991年7月には、長年議長を務めていたオリバー・タンボに代わり、マンデラはANC議長に選出された。1991年12月には、国民党とANCが国内のすべての政党に呼びかけ、保守党やアザニア解放機構などは不参加を決めたものの、残りの政党によって第一回民主南アフリカ会議(CODESA)が開催された。このCODESAにはマンデラは直接は参加せず、党内の若手であるシリル・ラマポーザを代表として送り込み、政府与党・国民党代表のロエルフ・メイヤーや他党代表と折衝を重ねさせた。CODESAは第二回まで行われたものの、1992年6月にフェリーニヒング市近くのボイパトンでインカタによるANC支持者への虐殺事件があり、これによりマンデラは交渉から撤退することを表明して暗礁に乗り上げた。これはラマポーサの説得と国民党との交渉によって打開され、ANCは交渉に復帰。1993年3月には複数政党交渉フォーラムの名で再び交渉が始まった。交渉開始直後に、ANCの有力政治家でマンデラの後継とみなされていたクリス・ハニ(英語版)が暗殺され、南アフリカ全土に緊張が走ったが、このときマンデラは民衆に冷静になるよう求め、暴動の勃発と交渉の崩壊を防いでいる。1993年11月にはついに合意が成立し、まず暫定憲法が国会において採択され、1994年4月に全人種参加の制憲議会選挙を行い、選出された新議会において新憲法を作成することが定められた。このことを受け、1993年12月10日にはデクラークとともにノーベル平和賞を受賞した。 全人種選挙の実施が決定しても、ボプタツワナやクワズールー(英語版)といったホームランド (バントゥースタン)の半分や、インカタ自由党や保守党(英語版)といった一部政党はこの時不参加を表明しており、各政党が私兵を用いて抗争を繰り返す状況は収まっていなかった。しかし、1994年3月10日にはボプタツワナで白人右翼およびボプタツワナ・ホームランド政府と民衆との衝突が起き、民衆側についたボプタツワナ国防軍(英語版)に白人右翼が敗走。右翼の弱体化を痛感したコンスタンド・フィリューン(英語版)は新党である自由戦線(英語版)を結成して選挙参加を決断し、マンデラを訪問して協力を求め、マンデラはこれを快諾した。これによってクワズールーを除くホームランドと白人右翼が選挙参加を決定し、残るインカタ自由党およびクワズールーも、4月19日のマンデラ・デクラーク・インカタ自由党党首マンゴスツ・ブテレジの三者会談によってブテレジが選挙参加を承諾し、南アフリカの全有力勢力が選挙に参加することとなった。
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