釈放と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 15:44 UTC 版)
「ワシーリー・スターリン」の記事における「釈放と死」の解説
1960年1月11日、ワシーリーは1年程早く刑期を終えて釈放された。釈放時には彼を取り巻く政治情勢は軟化しつつあり、元将官としてモスクワ市内の住居と年300ルーブルの恩給が支払われた。また空軍中将時代の軍服や勲章の着用も許可された。だがワシーリーはアルコール依存症となり、彼の素行はモスクワにも伝えられた。1960年4月9日、クレムリンにおいて父スターリンの旧友クリメント・ヴォロシーロフと会見してアルコールを止めるように強く勧められた。4月15日、ワシーリーは治療のための入国許可を中国大使館に要請したが、折りしも中ソ対立の真っ最中であったため頓挫した。最高会議幹部会は彼の釈放取消、名誉剥奪を決定してカザンに追放した。 1962年3月19日、カザンで急性アルコール中毒によって死去したとされるが、事実は定かではない。2002年11月、モスクワのトロエクロフスコエ墓地に改葬された。
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