酸素の発見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/03 23:19 UTC 版)
「ジョゼフ・プリーストリー」の記事における「酸素の発見」の解説
1774年8月、それまでとは全く異なる「気体」を分離したが、その直後にシェルバーン伯とヨーロッパ旅行に出かけたため、それ以上実験することができないでいた。しかしパリで現地の化学者らと実験の再現をする機会に恵まれた。その中にフランスの化学者アントワーヌ・ラヴォアジエもいた。1775年1月にイギリスに戻ると、実験を続けて二酸化硫黄(SO2、"vitriolic acid air" =「硫黄の酸の空気」)を発見した。 同年3月、1774年8月に発見した新たな気体について何人かに手紙で知らせている。そのうちの1通が王立協会の会合で読まれ、協会のフィロソフィカル・トランザクションズ誌に "An Account of further Discoveries in Air" と題してその発見の概要を記した論文が掲載されることになった。プリーストリーはこれを「脱フロギストン空気」と呼んだ。これは、酸化第二水銀を太陽光で熱するという有名な実験で得られたものである。彼はこれをまずネズミで試してみた。すると驚いたことにその気体の中でネズミはかなり長く生き続けた。次に自分でその気体を吸ってみて「呼吸や燃焼にとっては通常の空気より5倍から6倍良く、大気中に含まれるどんな気体よりも良いと信じている」と記した。これこそが酸素 (O2) の発見だった。 酸素についての論文と他のいくつかの成果をまとめ、Experiments and Observations on Air の第2巻を1776年に出版。「脱フロギストン空気」の発見はあまり強調されていないが(第3巻で大いに解説している)、序文でそのような発見が合理的宗教にとっていかに重要かを語っている。論文では、発見の経緯を時系列で述べており、実験から発表まで時間がかかったことや当初の当惑などを記している。したがってプリーストリーが具体的にいつ酸素を「発見」したと言えるのかは難しい問題である。その日付を特定することは、ラヴォアジエやスウェーデンのカール・ヴィルヘルム・シェーレとの関連で非常に重要である。シェーレも酸素を最初に分離したとしているが、出版はプリーストリーの後だった。ラヴォアジエはそれが純粋な気体であることを最初に述べた(つまり、フロギストン説とは無関係に酸素を定義した)。 "Observations on Respiration and the Use of the Blood" という論文でプリーストリーは気体と血液の関係を初めて示唆した。ただし、それもフロギストン説を使った理解のしかただった。いつものように論文は呼吸についての研究史から始まっている。その翌年、あきらかにプリーストリーに影響され、ラヴォアジエもフランス科学アカデミーで呼吸について論じている。その後ラヴォアジエは様々な発見をし、呼吸における酸素の役割を示した論文でフロギストン説にとどめを刺し、現代化学の礎を築いた。 1779年ごろ、プリーストリーとシェルバーン伯は仲違いした。原因はよくわかっていない。プリーストリーの率直さがシェルバーン伯の政治家としての経歴に何らかの傷をつけたのではないかと推測する同時代人もいた。スコフィールドは、そのころシェルバーン伯が再婚しておりその妻がプリーストリーを嫌ったのではないか、と推測している。プリーストリーはアメリカ移住も考えたが、結局バーミンガムのユニテリアン教会での聖職の申し出を受けることにした。
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