郊外の反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 09:41 UTC 版)
少なくともその前半においては、黄色いベスト運動はパリが運動の舞台の一角とはなっているものの、そのメインステージではなかった。メインステージは、むしろマージナルな郊外の円形交差点(rond point)の占拠にあり、中心都市(パリやストラスブール、マルセイユ)はメディアによってショーアップされた破壊と略奪の舞台となった。これは都市の資本や富の集中に対する郊外からの反応であり、その意味で郊外生活者が都市で進行する資本システムの結果としてもたらされる「格差社会へアンチテーゼ」を突きつけた側面があった。また、学生が先導し、メディア的にも運動的にもパリを主な舞台としたちょうど50年前、1968年の、五月危機とはその意味で異なっている。都市は組み込まれているが、都市中心の運動ではなかった。 2016年、米国でトランプ政権を誕生させた原動力となったのは、グローバリズムによる豊かさの恩恵にあずかれなかったマージナルな人々の支持であったといわれているが、「周辺からの中心への反発」というコンテキストにおいて、この米国の動きとの共通性が見られる。黄色いベスト運動は、ブリュッセルやマクロンに代表される記名性や署名性、個人によって機能するエリート官僚主義的な中心ではなく、無記名でアノニマスで集団主義的、すなわち、より各自各々の民衆に身近な周辺の運動であり、資本の進行をより民衆に引き寄せようとしている(ベルギーで運動の中心がブリュッセルではなく南部のワロン地域だったことは象徴的であり、ブレクジットもその成否如何をさておけば、同じようなコンテキストに支えられている)。マスメディアの変化(テレビからソーシャルメディア)に伴い、これらの運動は中心をより多くの場所にしようとしている(究極的にはソーシャルメディアの「いいね!」や「♡」ボタンを介した、個人になる)。 かつて、アンチ=エスタブリッシュメントが「ソフトパワー」として、世界変革のうねりとなるまでに高まったのは、1960年代のベトナム戦争下の米国だった。彼らは中国の人民公社=パブリック・コミューンを引用しながら、闘争よりも「平和」を重んじる独自のコミュニティ形成(ヒッピー)を試み、試みはやがてオルタナティブな価値に結実し、エスタブリッシュメントに対する「もうひとつの価値(カウンターカルチャー)」を用意した。運動はそういったアンチ=エスタブリッシュメントの流れの、分岐したより性急かつ暴力的な側面の強いものとして見ることもできる。
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