運動と自然解消まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 01:38 UTC 版)
結成直後の第二回メーデー(1920年5月1日)に畳3分の2くらいの大きさで「赤瀾会」の字を書いた旗と、それよりひとまわり小さな RW (Red Waveの略)のロゴマークの旗(いずれも黒地に赤く縫いつけた)を掲げたデモで華々しく登場、労働者から大いに注目を浴びたが、警察と大立ち回りを演じて全員検束、マスコミに大々的に報道されジャーナリズムの恰好のえじきとなり、翌日の新聞各紙で社会面トップ記事に取り上げられて有名となる。とくに堺利彦の娘である18歳の堺真柄は、その若さゆえにマスコミの寵児となった。当時の一般人には、メーデーへの参加は検束を覚悟の上のもので、女がデモに参加することなど夢にも考えられなかったからであった。翌年のメーデーのデモでは、全国各地で女性の参加者が見られるようになる。のちに有名となる綱領は、前年、女学校を卒業したばかりの真柄によって書かれた。 会は、街頭活動を活発に行ない、以下のように講演、講習を開催。 社会主義同盟第二回大会に参加(1920年5月9日、神田の青年会館。開会宣言もしないうちに警察の妨害によって中止、同盟は同月28日に結社禁止命令を受ける)。 建設者同盟の講演会(5月14日、同じく青年会館)に九津見房子と仲宗根貞代が参加し講演。 翌日、借家人同盟大会参加のため九津見房子と堺真柄で大阪に向かうが、大阪駅で検束され曽根崎署で一泊、大阪立ち退きを条件に釈放。 メーデーのビラ配布で出版法違反を問われ、罰金四十円をまかなうため6月11日に青年館で婦人問題講演会を主催。事前に配布した女学校や女子大へのビラが問題になり、新聞に文部次官が「取り締まる」と言明する談話が載る。講演会には男性の参加者が多数を占めたが、東京女子高等師範学校、津田英学塾、淑徳女学校、女子高等職業学校、女子高等医学専門学校などの学生も参加したという。講演会そのものは弁士中止を受けることなく無事に終了した。 7月18日から22日まで麹町元園町の赤瀾会事務所で夏期講習会を開催。 社会主義の立場で女性解放思想の普及に努めたが、リーダー格の九津見房子の恋愛による東京からの離脱(8月か9月頃)、高津多代子への弾圧お目出度誌事件(8月31日検束、9月15日再拘引、12月7日に証拠不十分で釈放)、10月12日の軍隊に反戦ビラを配る「暁民共産党事件」(軍隊赤化事件)容疑で堺真柄、仲宗根貞代が収監(12月6日入獄、翌1月9日保釈出獄、1923年出版法違反で禁固4ヶ月が確定し下獄)されるなど、おもなメンバーの離脱・検挙・起訴・投獄によって壊滅状態となり、自然解消に向かうこととなった。
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