運動としての展開
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「プロレタリア文学」の記事における「運動としての展開」の解説
1924年、雑誌『文芸戦線』が創刊された。これは、新しいプロレタリア文学の中心的な雑誌となった。平林初之輔や青野季吉が、理論的な面での論陣をはった。特に青野の〈「調べた」芸術〉の提唱は、作家たちの創作意欲を高めた。葉山嘉樹が「淫売婦」を、黒島伝治が「豚群」を書くなど、新しい作家たちも登場した。 しかし、それと同時に、政治運動の流れに影響される傾向もあらわれた。特に、この時期に社会民主主義系と共産主義系との対立が政治分野であらわれたことが、プロレタリア文学の陣営のなかに対立を呼び起こすことにもなった。1927年には「労農芸術家連盟(労芸)」(葉山嘉樹など)、「日本プロレタリア芸術連盟(プロ芸)」(中野重治など)、「前衛芸術家同盟(前芸)」(蔵原惟人など)の三つの団体が分立する状態であった。 1928年に、蔵原はこうした事態を打開しようと、既存の組織はそのままにしての連合体結成を呼びかけた。それに応えて、3月13日に、日本左翼文芸家総連合が結成された。しかし、この呼びかけに対して、『文芸戦線』に拠っていた「労芸」のグループは積極的な参加の意思表示をしなかった。それが、その直後の、三・一五事件の弾圧を契機とした「プロ芸」と「前芸」との組織合同に、「労芸」が冷淡な態度をとりつづけたことともつながっていく。 1928年3月、「プロ芸」と「前芸」は、組織的にも合同して、新たに全日本無産者芸術連盟(Nippona Artista Proleta Federacio、NAPF、ナップ)を結成した。ナップは『戦旗』を機関誌にした。ナップが権威をもったのは、小林多喜二と徳永直という、二人の新進作家によるところが大きい。多喜二は「一九二八年三月十五日」「蟹工船」と立て続けに中篇小説を、直は長編「太陽のない街」を連載し、『戦旗』をプロレタリア文学の代表的な雑誌とした。そのため、黒島伝治のように『文芸戦線』派からも『戦旗』に変わっていくものもあらわれたし、ソ連から帰国した中条百合子や、芥川龍之介を論じた「『敗北』の文学」で『改造』の文芸評論に入選した宮本顕治などの書き手も、作家同盟に参加していった。『戦旗』では、文学を社会運動の場にひろげるために、〈壁小説〉という、工場の壁に貼ったり、ビラにして配布できる掌編小説の形式を提唱もした。 この時期には、『文芸戦線』のほうも、岩藤雪夫や伊藤永之介のような、堅実な作家たちが活躍したが、代作事件を起こすような親分子分の関係が強く、それが『戦旗』ほどの評判を呼ばない一因でもあった。 1930年にひそかにソ連に渡航し、プロフィンテルンの会議に参加した蔵原は、帰国後の1931年、文学組織の大衆化を提唱した。これは、工場や農村に文学サークルを組織し、そこを新しい書き手や読者の供給源にしようとしたものだった。弾圧の予想される中で、そうした組織化への批判もあったが、あたらしく、日本プロレタリア文化連盟(Federacio de Proletaj Kultur Organizoj Japanaj、KOPF、コップ)が結成された(1931年11月)。文学だけでなく、ほかの芸術ジャンルの組織もつくられた。
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