連続拉致監禁・毒ガス攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 07:35 UTC 版)
「オウム真理教の歴史」の記事における「連続拉致監禁・毒ガス攻撃」の解説
「オウム真理教の国家転覆計画」を参照 1994年(平成6年)と1995年(平成7年)には特に多くの凶悪事件を起こす。そのうちいくつかの事件では当初より容疑団体と目され、警察当局の監視が強化された。オウム内ではビデオ「戦いか破滅か」や雑誌「ヴァジラヤーナ・サッチャ」などで危機感を煽った。ビデオ「戦いか破滅か」で教団はアメリカに毒ガス攻撃を受け弾圧されているとし、またフリーメーソンがハルマゲドンを起こそうとしていると説法した。 「信徒用決意」という決意文にはこうある。「泣こうがわめこうがすべてを奪いつくすしかない」「身包み剥ぎ取って偉大なる功徳を積ませるぞ」「丸裸にして魂の飛躍を手助けするぞ」「はぎとって、はぎとって、すべてを奪い尽くすぞ」。さらに、決意Ⅲ-2にはこうある。「たとえ恨まれようと、憎まれようと、どんなことをしてでも、真理に結び付け、救済することが真の慈愛である」「救済を成し遂げるためには手段を選ばないぞ」「そして、まわりの縁ある人々を高い世界へポワするぞ」。 1994年には教団は拉致・監禁を平然と連続して行うようになった。1994年3月27日には宮崎県資産家拉致事件、1994年12月には鹿島とも子長女拉致監禁事件(1994年12月5日〜1995年1月23日)とピアニスト監禁事件(1994年12月10日〜1995年3月22日)などの拉致監禁事件を起こし、サティアンに作られた独房や監禁用コンテナ、一日中麻原の説法テープを聞かせる部屋(ポアの間)に被害者を監禁した。 1994年8月頃には早川が担当した皇居サリン散布計画のために、千代田区平河町に5箇所、中央区銀座に3箇所、港区赤坂に2箇所のテナントやマンションを借りていた。井上嘉浩によれば、目的は武力クーデターによる政権奪取で、皇居周辺の国家中枢の破壊を狙っていたと証言した さらに1994年夏に土谷正実が猛毒VXの合成に成功し、これを用いた襲撃を計画し、実行していった。同年9月に滝本太郎弁護士VX襲撃事件、12月には駐車場経営者VX襲撃事件や会社員VX殺害事件、1995年1月4日にはオウム真理教被害者の会会長VX襲撃事件を起こした。 1994年9月20日にはオウムを追っていたジャーナリストの江川紹子が何者かに毒ガスホスゲン攻撃を受ける(江川紹子ホスゲン襲撃事件)など、オウムと毒ガスの関係性が噂され始めた。 麻原は「100人くらい変死すれば教団を非難する人がいなくなるだろう。1週間に1人ぐらいはノルマにしよう」「ポアしまくるしかない」などと語っていた。 松本サリン事件後に「サリン事件は、オウムである」などと書かれた「松本サリン事件に関する一考察」という怪文書が出回っている。1994年11月には強制捜査接近の噂迫が教団内に流れ、サリンプラントの建設を中断するなどの騒ぎとなっていた。
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