迫害の経緯
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1923年にカトリック信徒の中学生2人が高千穂神社の参拝を拒否し、退学となった。『鹿児島新聞』1924年10月11日号はこの事件にふれ「現在同島の三分の一はキリスト信者となり、その結果、過激の言動をなすものが増加し来たり」と報道した。ただし、宮下正昭は当時の信者のパーセンテージを5.6%としている。『鹿児島新聞』1924年10月31日号は大島高女が教育勅語を奉読していないとして非難した。 1933年に邪教排撃運動がおこり、名瀬町民大会は国体に反するとされた大島高等女学校の即時撤廃をもとめる決議文を宣言し、同年12月に翌年3月31日限りで廃校とすることが文部省に認可された。教育勅語への不敬があったとして1934年の臨時議会で廃校が決議。奄美のカトリック信者は日本宗教への改宗を強要される。軍人はカトリック信徒を集めて監禁し、背教しないと殺すと脅した。青年団員はカトリック信徒宅に押し入って十字架、ロザリオ、祈祷書を奪い、かわりに天照大神の札を貼った。憲兵は「天皇とキリストのどちらが偉いか」詰問した。教会は襲撃される。 奄美大島要塞司令部の1934年(昭和10年)の報告書は「カ教教義は国体・国民精神と相いれず、かつ部落の統一・平和を害する」としている。奄美大島要塞司令部は、1935年(昭和11年)8月にカトリック教徒の転向の状況を調査し、9月25日付けで陸軍次官あてに報告している。 1936年に瀬戸内国防協会は大会を開いて、「国土防衛の生命線たる奄美大島におけるスパイ容疑外人、並びに邪教カトリックの徹底的殲滅を期す」と決議。聖心教会の聖堂内の十字架は壊された。大笠利の教会は焼失した。迫害の中、11月に14のカトリック教会は鹿児島県に無償譲渡された。1937年に町村に無償で払い下げられ、役場となった聖心教会の十字架は切り倒されて、かわって日の丸が掲げられた。カトリック信者の家は、防空演習のためとして、順繰りに放水され、家中が水浸しになった。肺病の少女がいたカトリックの家も一連の防空演習により、少女が寝ていた布団ごと水に浸かった。商家では放水され売り物が被害を受けた。
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