迫害の経緯とは? わかりやすく解説

迫害の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/02 01:09 UTC 版)

奄美カトリック迫害」の記事における「迫害の経緯」の解説

1923年カトリック信徒中学生2人高千穂神社参拝拒否し退学となった。『鹿児島新聞1924年10月11日号はこの事件にふれ「現在同島の三分の一キリスト信者となり、その結果過激言動をなすものが増加し来たり」と報道した。ただし、宮下正昭は当時信者パーセンテージを5.6%としている。『鹿児島新聞1924年10月31日号は大島高女教育勅語奉読ていないとして非難した1933年邪教排撃運動がおこり、名瀬町大会国体反するとされた大島高等女学校即時撤廃をもとめる決議文宣言し同年12月翌年3月31日限り廃校とすることが文部省認可された。教育勅語への不敬があったとして1934年臨時議会廃校決議奄美カトリック信者日本宗教への改宗強要される軍人カトリック信徒集めて監禁し背教しないと殺すと脅した青年団員はカトリック信徒宅に押し入って十字架ロザリオ祈祷書奪いかわりに天照大神貼った。憲兵は「天皇キリストのどちらが偉いか」詰問した教会襲撃される奄美大島要塞司令部1934年(昭和10年)の報告書は「カ教教義国体国民精神と相いれず、かつ部落統一・平和を害する」としている。奄美大島要塞司令部は、1935年(昭和11年)8月カトリック教徒転向状況調査し9月25日付け陸軍次官あてに報告している。 1936年瀬戸内国防協会大会開いて、「国土防衛生命線たる奄美大島におけるスパイ容疑外人並びに邪教カトリック徹底的殲滅期す」と決議聖心教会聖堂内の十字架壊された。大笠利の教会焼失した迫害の中、11月に14カトリック教会鹿児島県無償譲渡された。1937年町村無償払い下げられ役場となった聖心教会十字架切り倒されて、かわって日の丸掲げられた。カトリック信者の家は、防空演習のためとして、順繰り放水され、家中水浸しになった肺病少女がいたカトリックの家も一連の防空演習により、少女寝ていた布団ごと浸かった商家では放水され売り物被害受けた

※この「迫害の経緯」の解説は、「奄美カトリック迫害」の解説の一部です。
「迫害の経緯」を含む「奄美カトリック迫害」の記事については、「奄美カトリック迫害」の概要を参照ください。

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