迫害の始まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/05 05:53 UTC 版)
「ハンス・ニールセン・ハウゲ」の記事における「迫害の始まり」の解説
1796年以降、ハウゲの伝道により、リバイバルが成功していたが、それを苦々しく思ったデンマーク=ノルウェー国のルーテル教会はハウゲの信徒伝道を認めず、「小集会に関する法律」などの法律をもとに、度重なる迫害を行った。ハウゲが初めて逮捕されたのは1797年のことで、最後に逮捕された1804年までの間に10回逮捕されている。特にオスロの県知事であったフリードリク・ユリアス・コース(コースは後に、コペンハーゲンの内閣議長まで務めた。)は、ハウゲへの迫害に力を注いでいた人物で、県知事時代から内閣議長時代まで一貫してハウゲ逮捕命令を出し続け、1754年成立の「放浪者に関する法律」を拡大解釈し、定職のない信徒説教者も放浪者とみなすなどして、ハウゲを苦しめた。 ハウゲを取り締まる法律は恣意的に解釈され続け、具体的な罰則事項もないものであったが、度重なる迫害の結果、ハウゲの生涯で最後となる1804年の逮捕をもって、彼は長い拘置所生活に入ることになった。拘置所での拘置期間は約7年、そしてその後、判決が下るまで農場での監視生活は約3年続いた。ハウゲは拘置中、判決も下っていないのに非人道的な扱いを受けたり、肉体労働を課されたりして、体力的にも精神的にも衰弱した。そして彼の財産は全て没収され、著書も全て回収された。さらに拘置の最初の2年間は、危険人物として完全に世間から隔離され、友人とも会えず、本を読むことも許されなかった。やがて読書を許されるようになっても、与えられるのは無神論の本や世俗的な本ばかりで、ハウゲを霊的に損なおうとする嫌がらせが行われた。また、ハウゲが拘置されている間に、彼の両親が相次いで亡くなっており、彼は悲しみのあまり絶望した。
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