迫害と司牧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 10:19 UTC 版)
1664年(康熙3年)に、楊光先は迫害を発動し、翌年には全国の数十名のヨーロッパの宣教師が広州に監禁され、ただ羅文藻神父一人が自由に行動出来た。そのため、1665年から後の3年間、羅文藻は一人で中国全土の教務を支え、福建、浙江、江西、広東、山西、河北、山東、江蘇、安徽、湖南、四川の諸省に赴いた。功績は著しく、およそ五千人の成人に洗礼を授けた。当時の安南、マカオ、フィリピン等の各地の司教や神父は教皇に意見書を出して羅文藻を司教に推薦した。1673年7月30日に教皇庁福音宣教省は中国に関する特別会議を開き、その内容は羅文藻をバチカンの代牧の列に加える決定をするかどうかであった。同年10月2日に別の会議を開き、最後に教皇に中国人ドミニコ会士羅文藻を司教にし、直接教皇庁に所属する代牧として任命し派遣すること請求する決議をした。1674年1月4日に教皇クレメンス10世は羅文藻を南京代牧に委任し、河北、河南、陝西、山東、山西および朝鮮の教務を兼務させた。そして、司教が胸に付ける十字架、司教のリングを送ることで羅神父への愛護を示した。委任の初めには、羅神父は辞退し、1677年初めに本来はシャム(タイ)に行って司教叙階を受ける時に、辞退する手紙を書いて中国とシャムの司教に教皇への転送を托したが、航路は遠いので、上述した司教の返信は福安まで届く術がなかった。最終的に辞退は教皇庁の認可を得られず、司教叙階も様々な原因によりますます困難になっていった。1679年に教皇インノケンティウス11世は再び聖座の意向を表明し,この時には羅神父は委任を受託したが、教皇の任命状は遅れに遅れて届かなかった。1685年にフランシスコ会のベルナルディヌス・デ・ラ・キエザ(Bernardinus della Chiesa,中国名:伊大任)司教が中国に来て、同年の4月8日に羅神父は広州で司教叙階を受けた。
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