近世・それ以後
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宗教改革に際して、ドイツ語聖書の出版を可能にした技術である活版印刷術は、この街の出身者ヨハネス・グーテンベルクの発明とされる。16世紀前半、マインツ大司教アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク (Albrecht von Brandenburg 1490-1545; 選帝侯 1514-1545) のもとで文化活動が興隆した。アルブレヒトは大司教位就任の際、多額の金額を教皇に支払ったが、それはフッガー家からの借金によるものだった。彼はその大金の返済を贖宥状の利益によって果たそうとし、宗教改革の引き金を引くことになる。因みに、大聖堂の脇にあるMarktbrunnen(「市場の噴水」)はアルブレヒト・フォン・ブランデンブルクにより、パヴィアの戦いでの神聖ローマ皇帝カール5世のフランス王フランソワ1世に対する勝利と農民戦争の鎮圧を記念して1525年に建てられたものである。 17世紀になると三十年戦争、大同盟戦争などで荒廃した。 フランス革命が起きると、マインツは大きな影響を被る。まずフランスから大勢の亡命貴族が流れ込む。マインツ大司教は彼らを歓待し、マインツは反革命派の拠点になる。オーストリア皇帝やプロイセン国王がマインツに会して作戦を練り連合軍はフランスに進軍するがヴァルミーの会戦で敗走。勝利したフランス軍がドイツに侵攻し、1792年10月マインツを占領する。臨時政府と革命議会「ライン公会」(Der Rheinisch-deutsche Nationalkonvent)が置かれる。公会は1793年3月17日「マインツ共和国」(Republik Mainz)の樹立を宣言し、3月21日には、副議長ゲオルク・フォルスター提出の動議を採択しフランスへの合併を決議する。フランスの国民公会はこれを承認してマインツはフランス領であると宣言される。その後マインツはプロイセン・オーストリア連合軍に包囲され開城(1793年7月)となり、プロイセン領に編入される。 1798年から1814年にかけてのフランスによる占領の後、1816年にヘッセン・ダルムシュタット(Hessen-Darmstadt)に編入。 1834年7月、ドイツ連邦加盟諸国はメッテルニヒ主導の60か条からなるウィーン秘密協定を結んだ。これにより、マインツを本部とする諜報組織網が編成された。 1930年、連合国によるラインラント占領の終結を機に、ユダヤ系商人を両親に持つ彫刻家ベンノ・エルカーン(Benno Elkan; 1877-1960)制作による≪解放の記念碑≫の除幕式がマインツのシラー広場で催されたが、フランス軍がマインツから去り、町でユダヤ人排斥運動が盛んになると、1933年マインツ市長代理はこの記念碑を撤去させた。
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