軍艦 国後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 17:20 UTC 版)
竣工から間もない1940年(昭和15年)10月15日、清水利夫中佐(国後艦長)は神風型駆逐艦4隻(追風、疾風、朝凪、夕凪)で編成された第29駆逐隊司令へ転任。久保田智中佐(当時、勢多型砲艦2番艦比良艦長)が、清水の後任として国後艦長となった。 1941年(昭和16年)8月11日、国後艦長は久保田智中佐から北村富美雄中佐(当時、工作艦明石副長)に交代する。久保田中佐は特務艦宗谷特務艦長へ転任。のちに軽巡洋艦名取艦長として、同艦沈没時に戦死した。11月20日、国後は択捉島の単冠湾に到着。南雲機動部隊(第一航空艦隊)の入港に備え、哨戒にあたる。また演習と称して同地の沙那(しゃな)郵便局の通信事務を停止させた。また11月22日から23日にかけて機動部隊が単冠湾に到着すると、国後は同湾の警戒任務に従事した。11月26日、南雲機動部隊(旗艦赤城)は単冠湾を出撃、真珠湾に向かった。 太平洋戦争開戦時、占守型3隻(国後、八丈、石垣)はひきつづき大湊警備府部隊に所属していた。占守型2隻(国後、八丈)は軍隊区分「津軽防備部隊」として、津軽海峡の警備に従事。 1942年(昭和17年)1月8日、軍隊区分千島防備部隊に編入され、大湊-千島列島間で行動。6月上旬以降、アリューシャン攻略作戦の支援にあたる。 「子日」の行動履歴と合致しない点はあるが、「国後」副長であった相良辰雄によれば、「国後」が北千島の前進根拠地に初めて入港したとき(具体的な場所や時期は書かれていない)、在泊中だった駆逐艦「子日」から「貴艦はナニユエ本艦に敬礼サレザルヤ」との信号を受け、「国後」艦長が「ワレ国後ナリ」と返信を返すと、「国後」の艦長の方が階級が上のため「子日」艦長があわてて内火艇で謝りに来たという。
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