軍艦での任務
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/17 06:34 UTC 版)
「ウィリアム・ビーティ」の記事における「軍艦での任務」の解説
ビーティは1795年3月8日、28門フリゲート、ポモナ(英語版)の軍医となったが、ほどなくして艦長のオーガスタス・フィッツロイと衝突した。7月19日、ビーティが患者名簿に記入した2名の状態に関しての話し合いがとげとげしいものとなり、このためフィッツロイは、ビーティを無能で自分を侮辱したと非難し、その後ビーティの逮捕を命じた。ビーティの軍法会議は、8月4日にノアに停泊していたマラバー(英語版)の艦上で行われた。一等海尉と二等海尉をはじめとする目撃者の聞き取りの後、12人のシニア・キャプテン(英語版)により、ビーティはすべての点で無罪となった。 1795年9月、ビーティは38門フリゲート、アメティスト(英語版)の軍医に任命されたが、それからわずか3か月後の12月29日、かなりの強風が吹き荒れる夜に、ガーンジー島周辺を航行していた「アメティスト」は難破し、オルダニーの海岸に座礁せざるを得なくなった。ビーティの次の配属先は32門フリゲートのアルクメン(英語版)で、1796年3月26日に就任した。この艦の仕事はアメティストよりもはるかに恵まれていた。「アルクメン」がポルトガルの沿岸とスペインとで海戦に加わり、地中海作戦(英語版)では多くの艦を拿捕した。1799年10月17日、アルクメンはエタリオン(英語版)、ナイアッド(英語版)、「トリトン」とスペイン沖を航海していたところ、スペインのフリゲートである「テティス」、そして「サンタブリガーダ」と交戦し、この2隻を拿捕した。イギリス艦は、この2隻が金の延べ棒と高価な貨物を積んでいたことを大いに喜び、それを換金したところ総計65万2000ポンドにもなった。ビーティに支給されたのは2468ポンドで、これは彼の年俸の40倍に相当した。 1801年3月、ビーティは「アルクメン」から、36門フリゲートのレジスタンス(英語版)へ転属し、1802年1月のアミアンの和約で、英仏間の争いが終わるまでこの艦にいた。その後は半給待遇となり、1日当たり2シリング6ペンスが支給された。 平和は長続きしなかった。1803年5月、イギリスはフランスに宣戦布告を出した。7月にビーティは准士官待遇の軍医として、74門戦列艦のスペンサー(英語版)に乗った。この艦はブレスト沖の海上封鎖艦隊に配置されており、その翌年まで、嵐の多い冬の間中配置されていた。1804年6月、「スペンサー」はスペインのフェロル港北西部の封鎖を行っている最中に岩礁にぶつかり、修理のためプリマスに戻らざるを得なくなった。その後「スペンサー」は地中海に派遣され、8月にトゥーロン沖を封鎖しているネルソン艦隊に合流した。1804年の12月、ビーティは同じアイルランド人で、アルスター出身のジョージ・マグラスの後任として、ネルソンの旗艦ヴィクトリーの軍医となった。マグラスはジブラルタルの海軍病院にいたところを、軍医として「ヴィクトリー」に乗ったのである。
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