赤龍丸と弾薬掠奪事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 19:11 UTC 版)
1月29日、政府は鹿児島県にある陸軍省砲兵属廠にあった武器弾薬を大阪へ移すために、秘密裏に赤龍丸を鹿児島へ派遣して搬出を行った。この搬出は当時の陸軍が主力装備としていたスナイドル銃の弾薬製造設備の大阪への搬出が主な目的であり、山縣有朋と大山巌という陸軍内の長閥と薩閥の代表者が協力して行われたことが記録されている。 陸軍はスナイドル銃を主力装備としていたが、その弾薬は薩摩藩が設立した兵器・弾薬工場が前身である鹿児島属廠で製造され、ほぼ独占的に供給されていた。 後装式(元込め)のスナイドル銃をいち早く導入し、集成館事業の蓄積で近代工業基盤を有していた薩摩藩は、オランダ商社を通じて、イギリス製のパトロン(薬莢)製造機械を輸入し、1872年(明治5年)の陸軍省創設以前からスナイドル弾薬の国産化に成功していた唯一の地域だった。 火薬・弾丸・雷管さえあれば使用できる前装式銃と異なり、後装式のスナイドル銃の弾薬(実包)は真鍮を主材料として水圧プレスで成型される基部を持った薬莢が不可欠で、これが無ければ銃として機能しない。 薬莢基部は単純な構造であるため、個人レベルの量であれば家内生産で製造できなくもないが、小規模とはいえ軍が戦闘で使用する量を確保するには専用の大量生産設備が不可欠であり、同様の設備は当時の日本国内には存在していなかった。こうした工業基盤の有無も、一地方に過ぎない鹿児島と中央政府の力関係を均衡させていた主要因の一つだった。 また、旧薩摩藩士の心情として、鹿児島属廠の火薬・弾丸・武器・製造機械類は藩士が醵出した金で造ったり購入したりしたもので、一朝事があって必要な場合、藩士やその子孫が使用するものであると考えられていたこともあり、私学校徒は中央政府が泥棒のように薩摩の財産を搬出したことに怒るとともに、当然予想される衝突に備えて武器弾薬を入手するために、夜、草牟田火薬庫を襲って武器類を奪取した。この夜以後、連日、各地の火薬庫が襲撃され、俗にいう「弾薬掠奪事件」が起きた。 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}スナイドル弾薬の製造設備を失ったことは、薩摩を象徴する新兵器だったスナイドル銃が無用の長物と化し、すでに旧式化していた前装式のエンフィールド銃で戦わなければならなくなったことを意味しており、後装式と前装式の連射速度の違いがもたらす決定的な戦力差を戊辰戦争に従軍した西郷はじめ多くの薩摩士族達は、実体験を通じて良く理解していた。[要出典] 2月2日、政府側は赤龍丸に弾薬400箱を積んで鹿児島から撤退させたが、私学校側の弾薬接収にはほぼ無抵抗であり、この際に私学校青年により約84000発の弾薬と多数の小銃が接収された。また私学校側ではこれ以外にも弾薬の備蓄を行っており、西南戦争を通じて薩摩軍が使用できた弾薬は約300万発ともいわれる。後述の柳原前光が勅使として鹿児島入りした際、鹿児島でスナイドル銃の弾薬約30万発や、弾薬の原料が多く残っているのを発見し、「薩摩側は1年は戦える備えがあった」と述べている。
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