財団法人らい予防協会:藤楓協会
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「無癩県運動」の記事における「財団法人らい予防協会:藤楓協会」の解説
らい予防協会は、1931年 (昭和6年) に内務大臣安達謙蔵、渋沢栄一が設立した財団法人である。1931年1月21日、内相官邸で財界人を集め癩予防協会の発起人会が開かれ発足した。財団としての正式認可は同年3月18日である。癩予防協会は、癩予防の啓もう、調査研究の助成、癩患者扶助、「未感染児童」保護、患者相談所の設置、収容患者訪問、癩予防事業従事者の奨励などの活動を行った。 見た目は民間の財団法人であるが、事務所が内務省衛生局におかれていたことからわかるように実際には内務省の外郭団体である。実質的には同協会は内務省による癩行政の補助機関であり、ハンセン病患者の絶対隔離政策促進のための宣伝活動を主要業務とした。事実、副会頭・理事長には内務次官、常務理事には衛生局長と予防課長、理事に社会局社会部長というように、内務官僚が要職を占めている。会頭には清浦奎吾元首相がついた。 財団の発足にあたっては、第59回帝国議会貴族院衛生組合法案特別委員会で癩予防法案が審議されていた際に、「癩予防協会」が内務官僚の天下り機関になるのではないかとの懸念が示されていた。その際、衛生局長は、協会が民間団体であることを強調し弁明につとめたが、結局出来上がったのは内務省の外郭団体であった。財団の基金は、貞明皇后の下賜金と、会費、財界からの寄付と国庫補助金からなっていた。 同協会の中心活動の1つは「癩予防週間」による宣伝活動で、貞明皇后の誕生日である6月25日を中心として行われた。もう1つの大きな活動は出版物による宣伝で、内務省衛生局の「癩の話」の再編集本の発行を皮切りに、以後『国から癩をなくしませう』『癩伝染の経路』『癩予防施設概観 (昭和十年)』『同 (昭和十二年)』『療養の手びき』『癩の解説』『本妙寺の癩部落解消の詳報 資料 ㈣』『癩の根本対策』など多数の小冊子を発行した。 1951年 (昭和26年) に貞明皇后死去後、遺金の一部を基金とし1952年 (昭和27年) に藤楓協会へ改組された。また、それまで「癩予防週間」と名付けられていた宣伝活動は、1964年からは「ハンセン病を正しく理解する週間」に名称変更された。この時代になると、さすがに「癩」という言葉は差別的であるとみなされるようになったのが原因とみられている。 その後、藤楓協会は2003年から「財団法人ふれあい福祉協会」と改称されている。また、「ハンセン病を正しく理解する週間」は、厚生労働省との交渉の中で統一交渉団の要求に基づき廃止され、6月22日 (ハンセン病補償法が制定された日) を「らい予防法による被害者の名誉回復及び追悼の日」と定めて厚労省主催によって2009年から開かれている。
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