豊橋電気入社
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今西卓は、1883年(明治16年)8月7日、岐阜県揖斐郡池野村(現・池田町池野)の豪農今西文造の長男として生まれた。幼少時より俊才で、温知学校を経て岐阜県大垣中学校へ入学、開学以来となる好成績で卒業した。次いで京都の第三高等学校へ進み、1905年(明治35年)7月第二部工科を卒業。最終的に1908年(明治41年)7月、京都帝国大学理工科大学電気工学科を卒業した。 大学卒業後は学者を志望し大学院進学を準備していたが、周囲につられて就職へと方針を転換、日英水力電気という電力会社への入社を決めた。同社は日本とイギリスの合弁による大井川開発・東京送電を企画していた会社で、1908年6月に発起人総会が開かれたばかりであった。ところがイギリス側との交渉が捗らず会社設立に至らないため、今西は芝浦製作所(現・東芝)の岸敬二郎に紹介されて、一時的な就職先として愛知県豊橋市の電力会社豊橋電気に技師長として入社した。その後日英水力電気が会社設立に失敗し日英水電という静岡県内だけに供給する電力会社として出発したことから、今西は同社へ移ることなくそのまま豊橋電気に留まった。 今西が入社した豊橋電気は、1894年(明治27年)に地元の三浦碧水らによって設立された電力会社である。元々地元資本の会社であったが、会社規模の拡大に伴い地元以外からの出資が多くなっており、1908年には東京の実業家福澤桃介が筆頭株主となり取締役に加わっていた。この豊橋電気に入った今西の最初の仕事が豊川(寒狭川)における長篠発電所建設(1912年完成)であった。同地点は落差が少なく河川流量の変動が大きいという欠点があるため、水車をできる限り低い位置に置いて落差を稼ぎつつ縦軸を上へ伸ばして発電機を洪水位よりも高い位置に置く、という縦軸式水車発電機を取り入れた。今西はこれをナイアガラの滝にある同種の発電所にちなんで「ナイアガラ式発電所」と紹介している。 1916年(大正5年)2月、豊橋電気支配人に就任する(技師長と兼任)。豊橋電気の社長となっていた福澤桃介は名古屋市の名古屋電灯でも社長を務めており、同社の経営を主体としたため、豊橋電気の実質的経営は専務の武田賢治と支配人の今西に任された。相棒となった武田は宝飯郡国府町(現・豊川市)の医師兼実業家で、当時は福澤とともに各地の電気事業にかかわっていた。傲慢な性格で周囲に敵が多い人物であったが、今西とは親密な関係であったという。
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