豊橋電気入社とは? わかりやすく解説

豊橋電気入社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/18 15:51 UTC 版)

今西卓」の記事における「豊橋電気入社」の解説

今西卓は、1883年明治16年8月7日岐阜県揖斐郡池野村(現・池田町池野)の豪農今西文造の長男として生まれた幼少時より俊才で、温知学校経て岐阜県大垣中学校入学開学以来となる好成績卒業した次いで京都第三高等学校進み1905年明治35年7月第二部工科卒業最終的に1908年明治41年7月京都帝国大学理工大学電気工学科卒業した大学卒業後は学者志望し大学院進学準備していたが、周囲つられて就職へと方針転換日英水力電気という電力会社への入社決めた同社日本イギリス合弁による大井川開発東京送電企画していた会社で、1908年6月発起人総会開かれたばかりであった。ところがイギリス側との交渉が捗らず会社設立至らないため、今西芝浦製作所(現・東芝)の岸敬二郎紹介されて、一時的な就職先として愛知県豊橋市電力会社豊橋電気技師長として入社したその後日英水力電気会社設立失敗し日英水電という静岡県内だけに供給する電力会社として出発したことから、今西同社へ移ることなくそのまま豊橋電気に留まった。 今西入社した豊橋電気は、1894年明治27年)に地元三浦碧水らによって設立され電力会社である。元々地元資本会社であったが、会社規模の拡大に伴い地元以外からの出資多くなっており、1908年には東京実業家福澤桃介筆頭株主となり取締役加わっていた。この豊橋電気入った今西最初の仕事豊川寒狭川)における長篠発電所建設1912年完成であった同地点は落差少なく河川流量変動大きいという欠点があるため、水車をできる限り低い位置置いて落差稼ぎつつ縦軸を上へ伸ばして発電機洪水位よりも高い位置に置く、という縦軸水車発電機取り入れた今西はこれをナイアガラの滝にある同種の発電所にちなんで「ナイアガラ発電所」と紹介している。 1916年大正5年2月豊橋電気支配人就任する技師長と兼任)。豊橋電気社長となっていた福澤桃介名古屋市名古屋電灯でも社長務めており、同社経営主体したため豊橋電気実質的経営専務武田賢治支配人今西任された。相棒となった武田宝飯郡国府町(現・豊川市)の医師実業家で、当時福澤とともに各地電気事業かかわっていた。傲慢な性格周囲に敵が多い人物であったが、今西とは親密な関係であったという。

※この「豊橋電気入社」の解説は、「今西卓」の解説の一部です。
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