設備省
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 07:35 UTC 版)
「エコロジー・持続可能開発・エネルギー省」の記事における「設備省」の解説
1960年代、第五共和政初代大統領シャルル・ド・ゴールは、国家再建のため、国の現代化に取り組んだ。1966年、第3次ポンピドゥー内閣において、エドガール・ピザーニが設備大臣に任命された。設備省(Ministère de l'Équipement)は、かつての公共事業・運輸省(Ministère des Travaux publics et des Transports)と建設省(Ministère de la Construction)を統合したものである。前者がアンシャン・レジームにその起源を持つ、高度に地方分散が進んだ組織であったのに対し、後者は1945年に設置された、非常に中央集権的な組織であった。こうして、設備省の投資支出は、国家の資本支出の3分の1以上を占めることとなった。1967年時点において、設備省は、土地整備・都市計画局と建設局の2つの部局と、地方レベルにおける県設備局で構成されていた。1967年12月の土地基本法(Loi d'orientation foncière)により、設備省は土地と都市計画を所管することとなった。 1970年代、設備省は27,500kmに及ぶ道路の建設と都市計画の推進を担った。時を同じくして設備省は、団地の建設、あるいはまた環境問題に対する配慮に関して、初めて批判を受けることとなった。1978年、第3次バール内閣において、ミシェル・ドルナノが環境・生活環境大臣に任命され、初めて都市計画と環境政策の統合が図られた(ただし、運輸政策は依然として分離されていた)。これにより、土地整備・都市計画局は都市計画・景観局となった。しかし、1981年の政権交代のために、この組織は未完成なものにとどまった。 第2次モーロワ内閣は地方分権諸法を成立させ、これにより、県設備局は県議会の管轄下に入り、道路のみが国の管轄下に残った。また、建築局は都市計画・景観局と統合され、建築・都市計画局となった。こうして、県設備局は地方自治体のためにサービスを提供する機関へと変貌を遂げた。第2次シラク内閣(第1次コアビタシオン)においても、設備政策と環境政策が改めて統合されるなど、現代化の取り組みが継続された。 1990年代初頭には、国と県設備局との間で臨時職員制度が導入された。時を同じくして「都市政策(Politique de la ville)」という言葉が登場したが、大規模な都市計画は限られた用地を根底から再構成するために、省の統制を逃れ、国のあらゆる政策を阻止しようとした。また、ジョスパン内閣は、都市連帯・再生法(Loi relative à la solidarité et au renouvellement urbains、SRU法)の制定や、建築・都市計画局と住宅・建設局の統合(1998年3月に都市計画・住宅・建設総局となる)といった改革を行った。 2003年に第2次ラファラン内閣は、都市および都市の再生のための方針および計画に関する法律(Loi d'orientation et de programmation pour la ville et la rénovation urbaine、ボルロー法)を成立させたが、これは都市政策における急激な変化を象徴するものだった。同法は、都市の再生における解体と建設を促進することとなった。時を同じくして、地方分権は新たな段階に入り、道路網に関する責任が県に移譲された。これにより、およそ3万人の職員が県間道路局に配置換えされた。2004年には住宅政策が設備省の管轄を離れるとともに、翌年には部局の再編が行われ、道路総局、海洋・運輸総局、都市計画・住宅・建設総局、民間航空総局、道路安全・交通局および観光局が設置された。ド・ヴィルパン内閣においては、国土整備が設備省の管轄を離れ、「設備」省という名称は、もはや伝統を表すものでしかなくなっていた。1990年代初頭には既に提言されていたが、2007年からは県設備局と県農業・林業局が統合され、県設備・農業局が設置されるようになった。
※この「設備省」の解説は、「エコロジー・持続可能開発・エネルギー省」の解説の一部です。
「設備省」を含む「エコロジー・持続可能開発・エネルギー省」の記事については、「エコロジー・持続可能開発・エネルギー省」の概要を参照ください。
- 設備省のページへのリンク