虚偽の一例
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 10:05 UTC 版)
「ヒストリア・アウグスタ」の記述の誤りや、意図的な虚偽は枚挙に暇が無い。それらは同書が複数の著者によって執筆されたと見せかける行為から始まって、ディオクレティアヌスとコンスタンティヌス1世への報告書類、偽造された公文書、存在しない人物・組織の引用、様々な人物の「創造」(それは幾つかの伝記の主人公にまで至る)、空想上の演説、客観性の欠如、相互に矛盾する情報、そして恐らくは同書が編纂されたであろう4世紀後半の人物や事件に結びつけようとする記述など、多様性に満ちている。 以下に挙げられる例はほんの一握りの「誤り」であり、同書において全く珍しくない「典型例」である事を留意しなければならない。当然ながら「ヒストリア・アウグスタ」しか史料のない時代・出来事・人物についてはこうした誤りを取り除く術が無いままで使用されている。 ゲタの伝記で彼が5月27日にメディラヌムで生まれたとした上で、その年は「セウェルスとウィテリウスが執政官の年」であったと主張した。実際にはゲタは3月7日のローマ生まれであり、生まれ年の189年にセウェルスとウィテリウスなどという執政官は存在しない事が分かっている。 ハドリアヌスの伝記で頻繁に引用される養子ルキウス・アエリウス・カエサルの実父セルヴィリウスへ向けた書簡(これは20世紀に多くの学者が本物であると誤認した)。同書で引用される書簡ではエジプト滞在中のハドリアヌスは、「執政官セルヴィリウスへ」と呼びかけて、養子としたルキウスについて記述されている。ハドリアヌスがエジプトに滞在していたのは130年なのに対して、ルキウス・アエリウスが養子に指名されたのは136年である。加えて134年にセルヴィリウスは執政官から解任されており、息子が皇帝の養子に迎えられた時点では執政官ではない。 ハドリアヌスの解放奴隷フェレヌスによって手紙は後世に残されたとされるが、「ヒストリア・アウグスタ」以外にその存在を記録している資料はない。 デキウスの伝記で彼の功績としてケンソル職の復活を挙げ、彼は251年10月27日に元老院でウァレリアヌスを同職に任命したという。10月27日時点でデキウスは既に蛮族との戦いで敗死しており、死者が元老院に命じた事になる。ちなみにケンソル職の復活も全くその痕跡が見られない。 クラウディウス・ゴティクスの伝記でウァレリアヌスが「アスクリア」という武器を若きゴティクスに与えるよう命じたという。アスクリアとは実在する武器ではなく、エクスカリバーのような神話上の武器である。 ウァレリアヌスの伝記で彼がビザンティウムで荘厳な帝国議会「ウルピウス・トラヤヌス」を行い、そこでルキウス・ドミティウス・アウレリアヌスを養子にすると演説したという。何の出典も形跡も無く、ただの想像上の産物であると結論付けられている。 ガリエヌスの伝記で、「三十人の簒奪者」によって一時的に政権が運営された時期があったと主張される。ペロポネソス戦争後の三十人政権を露骨に意識した全くの創作であると見られている。 タキトゥスの伝記で、元老院での演説(これも大部分が創作と考えられている)を終えた後、Curia Pompilianaという建物を訪ねている 。そのような建物はローマ時代に存在しない。加えてタキトゥスの演説を賞賛した二人の議員も架空の人物であった。 ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌスの伝記で、同時代のエジプトの帝位請求者にフィルムスという人物がいたと主張されている。この人物も全くの架空の人物と考えられている。フィルムスについては別に伝記が立てられており、「ダチョウを毎日一羽平らげた」「ダチョウの群れに馬車を引かせた」「ワニの中を泳ぐ事を好んだ」「ガラスで作られた宮殿に住んだ」などと荒唐無稽な記述が列挙されている。
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