藤原京の範囲・構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 03:30 UTC 版)
藤原京は岸俊男などによる研究初期の想定では、大和三山(北に耳成山、西に畝傍山、東に天香久山)の内側にあると想像され、12条8坊からなる東西2.1km、南北3.2km 程度の長方形で、藤原宮は中央よりやや北寄りにあったと考えられていた。しかし1990年代の東西の京極大路の発見により、規模は、5.3km(10里)四方、少なくとも25km2はあり、平安京(23km2)や平城京(24km2)をしのぎ、古代最大の都となることがわかり、発見当時は「大藤原京」と呼んでいた。この広大な京域は、南側が旧来の飛鳥にかかっており、「倭京」の整備に伴って北西部に新たに造営された地域を加え、持統天皇期に条坊制の整備に伴う京極の確立とともに倭京から独立した空間として認識されたとみられている。 特色として、以降に建設される、北に宮殿や政庁を配した北朝形式の太宰府、平城京や平安京とは異なり、京のほぼ中心に内裏・官衙のある藤原宮を配している。これは天武天皇の唐への対抗意識として、敢えて長安城や大興城に倣わず『周礼』冬官考工記にある理想的な都城造りを基に設計されたと考えられている。条坊制を採用し、東西5.3km(20坊)、南北4.8km(18条)の範囲内に碁盤目状に街路を配したとされる。 藤原宮から北・南方向にメインストリートである朱雀大路があり、これを境に東側に左京、西側に右京が置かれた。朱雀大路は、後の平城京や平安京のような幅70メートル以上の広いものではなく、幅24メートル強(側溝中心間)と非常に狭いものであった。想定される宮都域には「和田廃寺」「田中廃寺」「豊浦寺(向原寺)」の遺構などが確認され、宮都はこのような既存施設との兼ね合いで飛鳥川の南側の朱雀大路や羅城門が整備されなかったとする説もある。 東西を通る京極を除いて縦横9本ずつの大路が計画され、南北・東西に十坊の条坊制地割りが設定されている。左右京とも四坊ごとに一人の坊令(ぼうれい)を置き合わせて12人の坊令を置いたことが、大宝戸令(こりょう)と大宝官員令(かんいんりょう)にみえる。宮の北方に市が存在したことが明らかになっている。大和三山にかかる部分は条坊が省略されたと考えられるが、右京の四条付近にあった古墳群は、神武陵、綏靖陵を除いてこのときに削平されてしまったと見られている。また広大な宮都の南東が高く北西が低い地形のまま造営されており、汚物を含む排水が南東部から宮の周辺へ流れていたとみられる。なお藤原京には外的防衛の機能はなく、都を囲む城壁や正門が存在しない。
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