蕭宝巻への反乱と最期とは? わかりやすく解説

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蕭宝巻への反乱と最期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 14:46 UTC 版)

崔慧景」の記事における「蕭宝巻への反乱と最期」の解説

蕭宝巻即位すると、崔慧景は仮節・平北将軍のまま右衛将軍とされたが、拝受しなかった。499年永元元年)、護軍将軍転じ、まもなく侍中の任を加えられた。陳顕達反乱を起こすと、崔慧景平南将軍都督南討諸軍事の任を加えられ中堂駐屯した。反乱鎮圧は徐世檦が主導し崔慧景警備にあたるだけであったこのころ蕭宝巻有力な将軍大臣たちを粛清しており、崔慧景は軍での閲歴重ねた宿将であったため、保身不安を抱くようになった500年永元2年)、裴叔業寿春北魏降ったので、崔慧景は平西将軍の号を受け、軍を率いて水路から寿陽攻撃することとなった。軍を白下集結させ、出発しようとしたとき、蕭宝巻琅邪城まで見送り出てきた。蕭宝巻軍服着ての上にあり、召し出され崔慧景単騎厳重な包囲の中を進んで、誰ひとり従う者はなかった。数言を交わして辞去したが、崔慧景生きて出られたことを喜んだ。子の崔覚が直閤将軍となったが、崔慧景ひそかに時期打ち合わせた4月崔慧景広陵到着すると、崔覚が建康から逃亡した崔慧景広陵過ぎて数十里、軍主たちを呼び集めて蕭宝巻打倒朝廷再建宣言すると、みなこれに呼応した崔慧景は軍を広陵返した司馬崔恭祖が広陵城を守っていたが、開門して崔慧景らを迎え入れた蕭宝巻崔慧景反乱起こした聞くと、左興盛に仮節を与え建康水陸両軍率いさせた。崔慧景長江を渡るべく、京口に軍を集結させた。江夏蕭宝玄内応したので、南徐州兗州兵力合わせて蕭宝玄奉じて建康向かった蕭宝巻は張仏護・徐元称・姚景珍・徐景智・董伯珍・桓霊福らを派遣して竹里に拠らせ、数城を建てさせた。蕭宝玄は張仏護説得するべく手紙出したが、張仏護聞き入れず崔慧景の軍に射かけて戦闘となった崔慧景の子の崔覚や一族の崔恭祖が先鋒つとめた12日崔恭祖らが城を攻め落とした。張仏護単騎逃亡した追いつかれて斬られ、徐元称は投降しその他の官軍の軍主はみな死没した。 蕭宝巻は中領軍の王瑩に軍を率いさせて、湖頭拠って塁を築かせると、蔣山の西麓展開した官軍数万及んだ狩猟を得意としていた副児が蔣山の尾根沿いを通れば官軍不意を突くことができると提案したので、崔慧景1000人あまりを分遣して夜間西麓を下らせると、城中向かって鼓を打ち鳴らし大声で叫ばせた。驚倒した官軍逃げ散った蕭宝巻は左興盛台城内の3万人率いさせて崔慧景を北籬門で阻止させようとしたが、左興盛らは勢い押され退却した崔慧景は軍を率いて楽游苑に入り崔恭祖は軽騎十数人を率いて掖門突進したが、再び出てくると、宮門全て閉ざされた。崔慧景は兵を率いて台城包囲した建康周辺の東府城・石頭城白下城・新亭城はいずれ崔慧景の手勢によって陥落した。左興盛宮中入れず秦淮河岸の小舟中に逃げ込んだが、崔慧景部下捕らえられ殺された。宮中官軍一度出撃したが、撃退された。崔慧景蘭台府署を焼いて戦場としたが、衛尉代行する蕭暢が南掖門駐屯し城内差配して、崔慧景攻撃に応じて防御したので、台城内の人心はやや落ち着いた崔慧景宣徳太后の令と称して蕭宝巻廃位して呉王とした。ときに巴陵王昭冑(竟陵蕭子良の子)が崔慧景陣営投じ崔慧景はかれを気に入ったが、蕭宝玄差し置いて皇帝立てるべきかどうか逡巡していた。竹里での勝利について、崔覚と崔恭祖が勲功争い崔慧景はその優劣決めることができなかった。崔恭祖は火矢を射かけて北掖を焼くよう勧めたが、崔慧景は後の再建労を考えて却下した崔慧景法輪寺駐屯して、客を迎えて仏教高踏的な談義ふけっていたため、崔恭祖は失望顕わにした。 先だって衛尉蕭懿蕭衍の兄)が豫州刺史となり、裴叔業を討つべく歴陽から寿陽向かっていた。蕭宝巻密使蕭懿のもとに派遣され崔慧景反乱のことを知らされると、蕭懿は軍主の胡居士数千人を率いて長江渡り采石に上陸した建康南郊越城進軍して火を掲げると、台城孤立していた官軍援軍到着知って快哉叫んだ崔恭祖は2000人を派遣して秦淮河西岸遮断するよう勧めたが、崔慧景台城先に降せば、外からの援軍自然と離散するだろうと考えて退けた崔恭祖は蕭懿の軍を攻撃するよう願い出たが、崔慧景はまたも許さなかった。崔慧景は子の崔覚に精鋭数千人を率いさせて秦淮河南岸に渡らせた。蕭懿の軍が明け方会戦すると、崔覚は大敗し秦淮河追い落とされて、死者2000あまりに達した。崔覚は単騎逃走し橋桁開いて蕭懿の軍の秦淮河渡河阻んだその夜崔恭祖と劉霊運は台城訪れて官軍降った崔慧景求心力失ったことを悟って腹心数人率いてひそかに戦線離脱し長江を北に渡ろうとした。城北諸軍崔慧景離脱知らず、なおも抗戦していた。台城内から官軍出撃すると、数百人が殺された。蕭懿の軍が秦淮河北岸に渡ると、抗戦していた崔慧景部下たちもみな逃走移った崔慧景に従っていた腹心たちも散り散りになり、崔慧景単騎浦にいたって漁父に斬り殺された。その首級魚籠入れられて、建康送られた。享年63

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