蕭家の兄弟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 02:31 UTC 版)
(しょうけのきょうだい) 南北朝・梁 あらすじ 蕭家の七男と八男はとても仲が悪かった。いつから、何が原因でそうなったのかは誰も覚えていない。 蕭家は梁の皇族。南朝の梁は、「皇帝大菩薩」の異名を取る賢帝、武帝・蕭衍(しょうえん)の功績で泰平と栄華を誇っていた。梁の大同3年(西暦537年)、仲の悪い2人を見かねた武帝は、七男湘東王・蕭繹(しょうえき)を鎮西将軍兼荊州刺史として江陵に、八男武陵王・蕭紀を益州刺史として江陵から1600里離れた成都に赴任させる。 それから11年経った太清2年(西暦548年)、北朝の東魏で権力争いに敗れた侯景が、梁で乱を起こし(侯景の乱)、梁の国都・建康を陥落、幽閉された武帝は老いも相まって衰弱死する。父の仇を討つべしと、湘東王は武陵王に呼びかけるが、湘東王が文官であることを理由に断る。蜀の武人として名の通っていた武陵王は、大宝3年(西暦552年)、「梁の天子は自分以外にいない」と宣言し、即位。それと同時に、兄・湘東王の討伐を命じる。 湘東王は父の仇である侯景を追い詰めつつあった。弟の行いを軽蔑しながらも、たしなめ、北方の敵に備えよと親書を送る。当然武陵王は聞く耳を持たない。そして、湘東王は恐ろしい決断を下す。武陵王が兄討伐にかまけている間に北朝に蜀を討たせようと。互いに王座を譲るまいと、自国内にしか考えが及ばなかった兄弟の末路とは……。 参照項目 宇文泰(西魏の相国)・蕭統(武帝の長男、2人の兄)
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