蕭家の兄弟とは? わかりやすく解説

蕭家の兄弟

作者田中芳樹

収載図書黒竜潭異聞
出版社実業之日本社
刊行年月2000.10

収載図書黒竜潭異聞
出版社祥伝社
刊行年月2008.10
シリーズ名祥伝社文庫


蕭家の兄弟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 02:31 UTC 版)

黒竜潭異聞」の記事における「蕭家の兄弟」の解説

しょうけきょうだい南北朝 あらすじ 家の七男と八男はとても仲が悪かった。いつから、何が原因でそうなったのかは誰も覚えていない。 家は皇族南朝は、「皇帝大菩薩」の異名を取る賢帝、武帝蕭衍しょうえん)の功績泰平栄華誇っていた。大同3年西暦537年)、仲の悪い2人を見かねた武帝は、七男湘東王・蕭繹しょうえき)を鎮西将軍荊州刺史として江陵に、八男武陵王・蕭紀益州刺史として江陵から1600里離れ成都赴任させる。 それから11年経った太清2年西暦548年)、北朝東魏権力争い敗れた侯景が、で乱を起こし侯景の乱)、国都建康陥落幽閉され武帝老い相まって衰弱死する。父の仇を討つべしと、湘東王は武陵王に呼びかけるが、湘東王が文官であることを理由に断る。蜀の武人として名の通っていた武陵王は、大宝3年西暦552年)、「天子自分以外にいない」と宣言し即位。それと同時に、兄・湘東王の討伐命じる。 湘東王は父の仇である侯景追い詰めつつあった。弟の行い軽蔑しながらも、たしなめ北方の敵に備えよ親書を送る。当然武陵王は聞く耳を持たない。そして、湘東王は恐ろしい決断下す武陵王が兄討伐かまけている間に北朝に蜀を討たせようと。互いに王座譲るまいと、自国内にしか考えが及ばなかった兄弟末路とは……。 参照項目 宇文泰西魏相国)・蕭統武帝長男2人の兄)

※この「蕭家の兄弟」の解説は、「黒竜潭異聞」の解説の一部です。
「蕭家の兄弟」を含む「黒竜潭異聞」の記事については、「黒竜潭異聞」の概要を参照ください。

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