葭津村開発当時の家系
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「崎津村 (鳥取県)」の記事における「葭津村開発当時の家系」の解説
『新修 米子市史(第五巻) 民俗編』31-32頁によれば、「中世末期から江戸時代初期にかけては、長く続いた戦乱も治まり、士・農・工・商という新しい身分制度による分業化が定着していく時期であり、そうした時代の趨勢の中で、武士が刀を捨てて、帰農していく例も多かった。特に、敗戦によって主家を失って、浪人となった武士たちにとっては新しく定住の地を求めて、田畑を開墾していくことが生きながらえていくための唯一の選択であったとも考えられる。弓ヶ浜においても、開発の初期の段階では、武家出身者によって村が開かれたという所が多く、その中でも、尼子の浪人を開発の先祖だと伝えている村が多い。」という。 各家の元祖の氏名と履歴 阿川家元祖・善左衛門 讃岐高松の浪士であると言い伝う。「葭津村庄屋善左衛門」と社帳書上げに記載あり。 石橋家元祖・多郎兵衛 雲州廣瀬尼子氏の浪士であると言い伝う。〈上手〉石橋家の祠の前にあるムクノキは米子市3位の大きさのムクノキとして成長している。 友森家元祖・助左衛門 門江村より出た。平知盛の庶子清親〈高曽子丸〉の後裔であるという。高曽子丸は壇ノ浦より逃れ出雲片江浦に着き石見五郎清親式部と号す。清親の末裔、平清重は天正5年(1577年)没する。助左衛門、当地に転住し次代観蔵の代に百姓となる。初め知盛と言ったが明治維新の際現姓(友森氏)に改めた。 南波冀志著『鳥取県の平家部落』に153-154頁によれば、「当主は義元といい、その先祖は平知盛(重盛の弟)で、廉子高曾子丸(五才)は、元暦二年(一一八五)三月下旬壇の浦合戦後、一族とともに船で出雲国島根郡門江の浦(片江浦)にのがれたが、その後現在のところにうつったのは、いつのころか明らかでない。家紋は、鍬形に蔦の葉という珍しいもので、墓は葭津地内にある」という。 2016年現在、葭津地内にある友森家の墓群を見たところ、家紋は五瓜に蔦の葉と呼ばれるものに酷似していた。 山口家元祖・山口道弥の後室 初代は道三 道三は豊臣家の医官〈眼医〉山口道弥の一子。母は古澤備中守の娘也といい伝える。山口氏の本姓は大内氏。 文政6年(1823年)山口良哉は寺子屋を開き、明治4年(1871年)には男子40人を教え明治6年(1873年)まで続いた。 吉岡家元祖・與右衛門 雲州大根島より出たと称する。一説に雲州能義郡出かともいう。 長谷川家元祖・又兵衛 雲州塩冶村より塩冶氏の浪士であると言い伝う。 渡部家元祖・又右衛門 雲州大根島より出たと称する。波入村門屋という。吉兵衛が天明年間(1781年〜1788年)、宗旨庄屋を務め文化13年(1816年)から文政5年(1822年)まで大庄屋を務めた。 松本家元祖・次郎助 雲州大根島より出たと称する 幕末期、多次郎が庄屋を務めた。 安田家元祖・吉左衛門 米子城主池田由之の末裔を称する。万治年間(1658年〜1660年)安田氏の祖日野郡二部より米子に再住し紺屋を営んだが後、葭津に移住し農耕をなす。二部屋と称す。麦垣新田と称した当時上記先住者8戸に相次ぎ入住した。
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