葭津村開発当時の家系とは? わかりやすく解説

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葭津村開発当時の家系

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:49 UTC 版)

崎津村 (鳥取県)」の記事における「葭津村開発当時の家系」の解説

新修 米子市史(第五巻民俗編』31-32頁によれば、「中世末期から江戸時代初期にかけては、長く続いた戦乱治まり士・農・工・商という新し身分制度による分業化定着していく時期であり、そうした時代趨勢の中で、武士が刀を捨てて帰農していく例も多かった。特に、敗戦によって主家失って浪人となった武士たちにとっては新しく定住の地を求めて田畑開墾していくことが生きながらえていくため唯一の選択であったとも考えられる弓ヶ浜においても、開発初期段階では、武家出身者によって開かれたという所が多くその中でも、尼子浪人開発先祖だと伝えているが多い。」という。 各家の元祖氏名履歴 阿川家元祖善左衛門 讃岐高松浪士であると言い伝う。「葭津村庄屋善左衛門」と社帳書上げ記載あり。 石橋家元祖・多郎兵衛 雲州廣瀬尼子氏浪士であると言い伝う。〈上手〉石橋家の祠の前にあるムクノキ米子市3位大きさムクノキとして成長している。 友森家元祖・助左衛門江村より出た平知盛庶子清親〈高曽子丸〉の後裔であるという。高曽子丸は壇ノ浦より逃れ出雲片江浦に着き石見五郎清親式部と号す。清親末裔、平清重天正5年1577年没する。助左衛門当地転住次代の代に百姓となる。初め知盛と言った明治維新の際現姓(友森氏)に改めた南波冀志著『鳥取県平家部落』に153-154頁によれば、「当主義元といい、その先祖は平知盛重盛の弟)で、廉子曾子丸(五才)は、元暦二年(一一八五)三月下旬壇の浦合戦後、一族とともに船で出雲国島根郡江の浦片江浦)にのがれたが、その後現在ところにうつったのは、いつのころか明らかでない家紋は、鍬形蔦の葉という珍しいもので、墓は葭津地内にある」という。 2016年現在葭津地内にある友森家の墓群を見たところ家紋五瓜蔦の葉呼ばれるものに酷似していた。 山口家元祖山口道弥の後室 初代は道三 道三は豊臣家医官〈眼医〉山口道弥の一子。母は古澤備中守の娘也といい伝える。山口氏本姓大内氏文政6年1823年山口良哉は寺子屋開き明治4年1871年)には男子40人を教え明治6年1873年)まで続いた吉岡家元祖・與右衛門 雲州大根島より出た称する一説雲州能義郡出かともいう。 長谷川家元祖又兵衛 雲州塩冶村より塩冶氏浪士であると言い伝う渡部家元祖・又右衛門 雲州大根島より出た称する。波入村門屋という。吉兵衛天明年間1781年1788年)、宗旨庄屋務め文化13年1816年)から文政5年1822年)まで大庄屋務めた松本家元祖次郎雲州大根島より出た称する 幕末期、多次郎庄屋務めた安田家元祖・吉左衛門 米子城池田由之末裔称する万治年間1658年1660年安田氏の祖日野郡二部より米子に再住し紺屋を営んだが後、葭津移住し農耕をなす。二部屋と称す。麦垣新田称した当時上記先住者8戸に相次ぎ住した

※この「葭津村開発当時の家系」の解説は、「崎津村 (鳥取県)」の解説の一部です。
「葭津村開発当時の家系」を含む「崎津村 (鳥取県)」の記事については、「崎津村 (鳥取県)」の概要を参照ください。

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