菊池の自己犠牲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 05:07 UTC 版)
その夜遅くに帰寮した佐野に菊池がマントの件を質すと、佐野は「どうしよう。どうしよう」と蒼白になり、親や親戚に合わせる顔がないと悲鳴をあげて泣き出した。佐野の父・佐野友三郎は図書館学者として有名で、長男の佐野に不祥事があれば山口県立山口図書館長の職を辞するおそれがあった。佐野は、クリスチャンの父の勧めで子供の頃に教会に通ったこともあった。 色白の佐野は眉目秀麗で頭脳明晰な秀才のため華やかな存在であったが、性格的には脆弱で病的な盗癖の持主でもあった。菊池は、天才的でもあった佐野のことを、「落着いた頭のいゝ男であるが、どこか狂的な火のやうなものを持つてゐた」とのちに語っている。菊池は泣きじゃくる親友の佐野を見て、そのまま自分が罪をかぶることを決意した。菊池は、佐野や他の同級生より4歳も年上で親分気質なところがあり、一高を卒業しても大学に行く学資金の当てもなく、やや自棄的な気持にもなっていた。 5年後、この出来事をモデルにした短編小説「青木の出京」を執筆した菊池は、「ロマンチックな感激と、センチメンタルな陶酔――それらのものを雄吉は、後年どれだけ後悔し、どれだけ憎んだかわからないが――とで、彼の心はいつぱいになつた。(中略)俺は一人の天才、一人の親友を救ふといふ英雄的行動を、あへてなした勇士のごとき心持で」と、そのときの心情を主人公に語らせ、その後の随筆「半自叙伝」でも、自身本来の情熱的な気質に触れている。 私は、高等師範を青年客気の情熱の赴くままに、行動して出されたが一高もやはりさうであつた。しかも、なけなしの学資、借金をして送つてくれる毎月の学資を使ひながら、私は真面目な学問一方の学生にはなれないのだつた。かう云ふことを考へると、私は今でこそ理知的であるとか悧巧者だとか云はれてゐるが、私のどこかに情熱的な出鱈目なところがあるのである。 — 菊池寛「半自叙伝」 また、菊池は佐野に対して同性愛的慕情も抱いていたため、愛する佐野を庇うため自らが犠牲になる道を選んだ面もあった。菊池自身はそれを特に語ってはいないが、菊池の同性愛とマント事件の関わりについては、友人の久米正雄や、知人の江口渙も触れており、この事件を論文などで取り上げた東條文規や関口安義などからも指摘されている。菊池には一高以前にも同性愛的思慕の相手があり、高松中学校時代に英語を教えた美少年の下級生・渋谷彰に出したラブレターや交換日記も残されている。 僕たちの高等学校時代は、忘れる事の出来ない程出鱈目な、呑気な、又.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}焦々(いらいら)した、愉快な生活をしたものだ。其時分彼(菊池寛)は同性恋愛の熱心な宣伝者だつた。彼の言に依れば、同性恋愛こそは最も神聖な、最高なる恋愛の極致であり、其関係は最も進歩したる、最も文明的なるものであつた。此の見地に学問的背景を与へるため、彼は独逸のある六ヶ敷(むつかし)い研究を読んだり、同性恋愛の関する日本の古今の著書は、悉く渉猟し尽したりした。 — 久米正雄「同性恋愛の宣伝者(菊池寛氏の印象)」 菊池は一高入学前に、徴兵猶予のために在籍していた早稲田大学の図書館で読んだ井原西鶴全集に感激し、その中でも、とりわけ『男色大鑑』に「随喜の涙」をこぼしたほど感動を覚えていた。『男色大鑑』には、男同士の義理、仁義、献身、自己犠牲などの純粋な愛情を讃美するような物語の数々が描かれ、「グライヒゲシュレヒトリヒ」(ドイツ語で「同性愛的な」の意)の傾向にあった菊池の愛読書となっていた。
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