菊池の決心の固さ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 05:07 UTC 版)
だが、学校側に呼ばれた菊池は前言を翻すことなく、退学することとなった。菊池がもしもこの時に自分の無実を告白すれば、学校側は菊池を復学させると同時に、佐野の罪も不問にする手筈となっていたが、菊池はその意図を知らなかった。菊池はその後、長崎に「俺の犠牲を君は無にしたのだ」となじる書簡を何度か出し、佐野のことを憂慮しつつ、「佐野は自殺するであらう」とも書いた。 佐野の盗みが父親の耳に入り、休学・謹慎により山口県に引き上げることになった際には「僕は君の親切を長く痛切に恨む。君は誰よりも怖しい(原文ママ)僕等(引用者注:佐野と菊池)の破壊者であった」と菊池は長崎宛に綴った。1913年(大正2年)7月の書簡では、自らの行ないを「少しも恥ぢるところはない」として、長崎のことを「馬鹿」「ケチな人間」「下らない聖書なんかよして講談本でも読んで常識を養ひ給へ」などと激しく罵倒した。 君はなんといふCredulousな馬鹿な人間だらう。(中略)俺は君に断言する、あの事件に関して俺は少しも恥ぢるところはない。俯仰天地に恥ぢないはもとより君らが信じてゐる融通のきかない神といふ奴に対しても恥づる所は少しもない。君はどんな事を誤解してゐるか俺には分からないが、どうせ君のやうなケチな人間の推測だから相場は知れてゐる。君のやうな怖しい利己主義を道徳や信仰で包んでなるべくウマク世の中をゴマカシテ渡らうとする手合ひには俺のやうなsupermoralな人間のやることは分からないだらう。 — 菊池寛「長崎太郎宛ての書簡 大正二年七月六日付」
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