茶人としての石州とは? わかりやすく解説

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茶人としての石州

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/29 01:17 UTC 版)

片桐貞昌」の記事における「茶人としての石州」の解説

最初千利休長男千道安流れを汲む桑山宗仙茶道学んだといわれている。石州始めた時期については定かではないが、少なくとも20歳前後思われる28歳の時、寛永9年1632年)に師の宗仙は死去したが、その翌年より知恩院普請奉行として滞京しており、ここでの交流茶人として成長大きく寄与している。30歳の頃からは大和郡山藩主・松平忠明近江小室藩主・小堀政一遠州)らともよく茶席を共にしているほか、奈良茶人とも交遊深め宗匠として次第にその名が広がっていった。 慶安元年1648年)、将軍家光の意向により柳営御物将軍家名物茶道具)の分類整理行った。この功績により幕府内での評価高まり諸大名からも注目されるうになる承応2年1653年)頃、後西天皇行幸にともない當麻寺中之坊大円窓が特徴的な茶室丸窓席」を創立池泉回遊式庭園「香藕園(こうぐうえん)」を改修寛文3年1663年)、父の菩提のために慈光院創立した。これは寺としてよりも境内全体一つ茶席として造られており、表の門や建物までの道・座敷庭園、そして露地通って小間の席という、茶の湯で人を招く場合必要な場所ひと揃え全部が、一人演出そのまま300年越えて眼にすることができるということで、現在も全国的に見て貴重な場所となっている。慈光院庭園1934年に国の史跡及び名勝指定され1944年には書院茶室国宝保存法により当時国宝指定された(1950年文化財保護法により重要文化財となる)。 万治元年1658年)頃、堯然法親王下問に対して一畳半之事』を書く。寛文元年1661年)、『侘びの文』を書く。寛文5年1665年)には将軍家綱に船越伊予守とともに献茶行い長じて家綱茶道指南役となり石州流不動のものとした。寛文6年1666年)、仙洞御所庭園修復する寛文11年1671年)には、慈光院書院の脇に二畳台目の茶室増築亭主床のこの茶室石州代表的なものであるとともに作者時代形式などが明確に伝わる茶室としては最古のものだと言われている。寛文12年1672年)の2月から10月にかけて江戸において記録として残る最後茶会を行う。この一連の茶会には水戸光圀を客に招いた御成り含まれている。延宝元年1673年)、死の床藤林宗源対し「床なし紹鴎四畳半茶室」を作るよう申しつけ、その翌日死去したちなみに徳川光圀保科正之松浦鎮信らは、茶道における貞昌の門弟である。

※この「茶人としての石州」の解説は、「片桐貞昌」の解説の一部です。
「茶人としての石州」を含む「片桐貞昌」の記事については、「片桐貞昌」の概要を参照ください。

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