茶会での名物披露
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 20:55 UTC 版)
以上のように蒐集された茶器を信長は茶会で披露していた。竹本によれば、信長が名物茶器を茶会で使用したのは信長政権の樹立を図った天正元年からの3年間に集中している。 信長が催した茶会の記録は『天王寺屋会記』などの茶会記に詳しく記録されている。一例として天正3年10月28日に行われた茶会では、三好・武田・本願寺に対する戦勝祝いに訪れた堺衆を歓待しているが、彼らは弾薬などの調達で功績のあった商人らであった。用いられる茶道具は先だって和睦の証として三好康長から進上された三日月葉茶壷と、石山本願寺から進上された白天目茶碗を中心とする名物である。この茶会は、敵対勢力からの降伏・和睦である事を茶器の由来として聞かせ、信長政権の権威を示して更なる服従を求める目的があったと考えられる。茶会が終わると、そこで用いられた茶道具を客人以外に披露する「跡見」が行われた。跡見の参会者はいずれも1年ほどの間に功績があった家臣であり、茶会の場に参会する栄誉を与えることにより、家臣団の権力構造を明らかにして統制する目的があったと考えられる。 このように信長の茶会は、外部に対する権力の誇示と内部に対する家臣団の統制という2つの政治的な意図をもって催されたと考えられるが、そうした茶会は信長晩年まで行われた。特に本能寺の変の前日に公家や僧侶を招いて茶会を催していた為に、多くの名物が焼失したことが知られる。竹本は、信長はこうした茶会を行うことで、茶道具に「政治的な調度品」という価値を創造したと評価している。
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