英国からの帰国後
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19歳になっていた1882年(明治15年)9月にロンドンを発ち、10月に帰国。帰国間もない11月6日に近衛泰子と結婚。彼女との間に嫡男家正をはじめとする一男三女を儲ける。 帰国後ただちに麝香間祗候(勅任官待遇の宮中の名誉職)に就任。1884年(明治17年)に華族令が公布されて華族が五爵制になり、家達は最上位の公爵に叙された。 1887年(明治20年)10月31日、明治天皇が千駄ヶ谷の徳川公爵邸に行幸した。徳川家にとっては後水尾天皇が二条城を行幸して以来261年ぶりの名誉となった。そのイベントは盛大に催され、明治政府と徳川家の和解を象徴するかのようなイベントになった。勝海舟、大久保一翁、山岡鉄舟といった旧臣達や内閣総理大臣伊藤博文以下の閣僚たちも招待された。旧臣の大草高重ら十数名の流鏑馬が天覧に供されている。この行幸を喜んだ松平春嶽は海舟・一翁・鉄舟らの功労のおかげだと謝意を表明した。明治天皇の行幸があった徳川公爵邸の建物は「日香苑」と改名され昭和期に至るまで「明治天皇聖蹟」として保存され続けた。 1888年(明治21年)10月20日から31日にかけて旧領の静岡県を旅行した。廃藩置県以来17年ぶりの訪問だった。まだ東海道線が全線開通していなかったので、鉄道と馬車と人力車を乗り継いでの旅行だった。旧臣の静岡県知事関口隆吉が県官を引き連れて熱海で出迎えに立っている。久能山東照宮や宝台院、臨済寺、浅間神社、華陽院、吐月峰・片桐且元墓などを参拝し、途中から慶喜も同道し、旧藩士達と会見して親交を深めた。この旅行で接待費や旧藩士たちの子弟の教育費への寄付、寺社への喜捨などで1万円以上の費用を使った。 1890年(明治23年)の帝国議会開設と同時に貴族院議員に就任した。 日清戦争後の1895年(明治28年)には千駄ヶ谷の徳川公爵邸で「旧幕並静岡県出身陸海軍将校諸氏凱旋歓迎会」が催された。榎本武揚が会長を務め、徳川家や旧静岡藩にゆかりのある出征軍人たちを招待したものだった。会場を提供した家達は「天皇陛下の御威徳に由るといえども又豈将士忠勇の致す所にあらさらんや」と挨拶し、陸海軍将兵たちの活躍をたたえた。その後榎本の発声で「天皇皇后両陛下万歳」「陸海軍来賓万歳」「公爵万歳」が三唱された。また陸海軍軍人たちが「ヤツショ」の掛け声で家達、徳川篤敬侯爵、徳川厚男爵、徳川達孝伯爵の順番で胴上げを行った。 1897年(明治30年)には家達の東京移住後も静岡に残っていた慶喜が東京に移り、1898年(明治31年)3月2日に皇居で明治天皇に拝謁した。慶喜には1902年(明治35年)に家達の徳川宗家と別に公爵位が与えられた(徳川慶喜公爵家)。 1898年(明治31年)3月1日には華族会館の館長に就任した。
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