英国からの帰国後とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 英国からの帰国後の意味・解説 

英国からの帰国後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:54 UTC 版)

徳川家達」の記事における「英国からの帰国後」の解説

19歳になっていた1882年明治15年9月ロンドン発ち10月帰国帰国間もない11月6日近衛泰子結婚。彼女との間に嫡男家正をはじめとする一男三女儲ける。 帰国後ただちに麝香間祗候勅任官待遇宮中名誉職)に就任1884年明治17年)に華族令公布され華族五爵制になり、家達最上位公爵叙された。 1887年明治20年10月31日明治天皇千駄ヶ谷徳川公爵邸に行幸した。徳川家にとっては後水尾天皇二条城行幸して以来261年ぶりの名誉となった。そのイベント盛大に催され明治政府徳川家和解象徴するのようなイベントになった勝海舟大久保一翁山岡鉄舟といった旧臣達や内閣総理大臣伊藤博文以下の閣僚たちも招待された。旧臣大草高重ら十数名の流鏑馬天覧供されている。この行幸喜んだ松平春嶽は海舟・一翁・舟らの功労のおかげだと謝意表明した明治天皇行幸があった徳川公爵邸の建物は「日香苑」と改名され昭和期に至るまで「明治天皇聖蹟」として保存され続けた1888年明治21年10月20日から31日にかけて旧領静岡県旅行した廃藩置県以来17年ぶりの訪問だった。まだ東海道線全線開通していなかったので、鉄道馬車人力車乗り継いで旅行だった。旧臣静岡県知事関口隆吉が県官を引き連れて熱海出迎え立っている。久能山東照宮宝台院臨済寺浅間神社華陽院吐月峰片桐且元墓などを参拝し途中から慶喜同道し旧藩士達と会見して親交深めた。この旅行接待費旧藩士たちの子弟の教育費への寄付寺社への喜捨などで1万円上の費用使った1890年明治23年)の帝国議会開設同時に貴族院議員就任した日清戦争後1895年明治28年)には千駄ヶ谷徳川公爵邸で「旧幕静岡県出身陸海軍将校諸氏凱旋歓迎会」が催された。榎本武揚会長務め徳川家や旧静岡藩にゆかりのある出征軍人たち招待したのだった会場提供した家達は「天皇陛下の御威徳由るといえども又豈将士忠勇の致す所にあらさらんや」と挨拶し陸海軍将兵たちの活躍たたえたその後榎本発声で「天皇皇后陛下歳」「陸海軍来賓歳」「公爵歳」が三唱された。また陸海軍軍人たちが「ヤツショ」の掛け声家達徳川篤敬侯爵徳川厚男爵徳川達孝伯爵順番胴上げ行った1897年明治30年)には家達東京移住後静岡残っていた慶喜東京移り1898年明治31年3月2日皇居明治天皇拝謁した慶喜には1902年明治35年)に家達徳川宗家別に公爵位が与えられた(徳川慶喜公爵家)。 1898年明治31年3月1日には華族会館館長就任した

※この「英国からの帰国後」の解説は、「徳川家達」の解説の一部です。
「英国からの帰国後」を含む「徳川家達」の記事については、「徳川家達」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「英国からの帰国後」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「英国からの帰国後」の関連用語

英国からの帰国後のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



英国からの帰国後のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの徳川家達 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS