背景と場所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 11:01 UTC 版)
「ヘイスティングズの戦い」の記事における「背景と場所」の解説
主要な記録の多くが場合において相互に矛盾をきたしており、疑問の余地がない形で戦闘の描写を行うことは不可能である。争いのない事実は、戦いが1066年10月14日土曜日の午前9時に始まったこと、そして戦闘が黄昏時まで続いたことのみである。戦いがあった日の日没は16時54分で、戦場は17時54分にはほとんど暗くなっており、18時54分には完全な暗闇の中であった。当夜の月の出は23時12分に至ってのことであり、日が沈めば戦場にはほとんど明かりがなかった。ジュミエージュのウィリアム(英語版)は、ギヨーム公が不意の夜襲に備え、前夜を通じて配下の軍勢を武装させ準備を整えたままにしていたと報告する。戦いはヘイスティングズの11キロ(7マイル)北方、現在のバトルの街の、2つの丘――北側のカルドベック丘と南側のテラム丘の間で起きた。この地域には樹木が稠密に生い茂っており、近くには沼沢地があった。伝統的に戦いへ付与されている名称は、一風変わったものである――ヘイスティングズよりもはるかに戦場に近い集落が、いくつか存在したのである。『アングロ・サクソン年代記』は「霜白色の林檎樹の」戦いと呼んだ。40年を経ずして、戦いはアングロ・ノルマン人の年代記著者オルデリック・ヴィターリス(英語版)によって「センラック」(Senlac)と記述されており、これは「砂混じりの水」を意味する古英語の単語「サンドラク」(Sandlacu)をノルマン・フランス語に適合させたものである。戦場を横切る小川の名称であったかもしれない。戦いは1086年には既に、『ドゥームズデイ・ブック』において「ヘイスティングズの戦い」(bellum Hasestingas)と呼ばれていた。 この朝、日の出は6時48分で、当日に関する報告は常ならぬ明るさであった旨を記録している。天候については記録されていない。イングランド軍が戦場へ南進した経路の、正確なところは知られていない。いくつかの道が利用可能である。ロチェスターからヘイスティングズに伸びるローマ時代の古道は、1876年に近傍で大規模な貨幣の埋納遺構が発見されたことから、長く有力視されている。別の可能性が、ロンドンとルイスの間を結びそこから地元の小道を通じて戦場へと向かうローマ時代の道である。いくつかの戦いの記録は、ノルマン軍がヘイスティングズから戦場へ進んだと指摘するものの、ジュミエージュのウィリアム(英語版)による同時代の記録は、ノルマン軍を前夜に戦いの地へ布陣させている。大半の歴史家は前者の見方に傾いているが、M・K・ローソンはジュミエージュのウィリアムの記録が正確であると論じる。
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