背景とサーサーン朝の国家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 00:03 UTC 版)
「カワード1世」の記事における「背景とサーサーン朝の国家」の解説
カワード1世はペーローズ1世(在位:459年 - 484年)の子として473年に生まれた。サーサーン家は、初代のサーサーン朝の王アルダシール1世(在位:224年 - 242年)がパルティアを倒し、ペルシアを征服した224年以降ペルシアの君主を輩出してきた。ペルシアは非常に軍事化された社会を形成し、支配層は自らを「戦士貴族」(アルテーシュターラーン)と呼んでいたが、それでもローマ帝国と比較して人口はかなり少なく、貧困であり、中央集権化の程度で劣っていた。結果として、サーサーン朝の王は少数の常備軍よりも貴族の軍事力に依存していた。いくつかの例外は、王室警護の騎兵隊と守備隊、そしてペルシアの外部から徴兵された部隊であった。 貴族の大部分にイラン高原を中心とする強力なパルティア貴族(ウズルガーン(英語版)として知られている)が含まれていた。彼らはサーサーン朝の封建的軍隊の根幹を担い、ほとんど自律的な存在であった。サーサーン朝の王はウズルガーンをほとんど制御することができず、彼らの自己決定を制限しようとする試みは、大概において王の暗殺という結果をもたらした。これらのパルティアの流れを汲む貴族は、究極的には個人的な利益と誓約、そして恐らくは彼らがペルシアの大君主と共有していた「アーリア人」(イラン人)の一員であるという共通意識のためにサーサーン朝の王に仕えた。 軍事力におけるもう一つの極めて重要な構成要素はアルメニア人騎兵の存在であり、彼らはパルティア人のウズルガーンの階級の外から徴兵されていた。しかし、451年におけるアルメニアの反乱(アヴァライルの戦い(英語版))とアルメニアの騎兵隊の喪失は、北東部で国境を接するエフタルの侵入を食い止めるサーサーン朝の試みの妨げとなった。カワード1世の祖父にあたるヤズデギルド2世(在位:438年 - 457年)は、その治世のほとんどの期間を通してエフタルに対する戦争を継続し、この時代にはエフタルの侵攻を阻止することに成功していた。しかしながら、その後中央アジアにおけるサーサーン朝の権威は衰えを見せ始めた。484年、ペーローズ1世がバルフ近郊におけるエフタル軍との戦いに敗れて戦死した。軍隊は完全に打ち破られ、ペーローズ1世の遺体は発見されなかった。また、ペーローズ1世の息子と兄弟のうち四人が共に命を落とした。戦後、サーサーン朝の東方に位置するホラーサーンの主要都市であるニーシャープール、ヘラートおよびメルヴがエフタルの支配下に置かれることになった。 その後、サーサーン朝の大貴族カーレーン家(英語版)のスフラ(英語版)がすぐに新しい軍隊を編成してエフタルによるさらなる侵攻を食い止め、ペルシアの有力者、特にスフラとミフラーン家のシャープール・ミフラーン(英語版)によって、ペーローズ1世の兄弟であるバラーシュが王に擁立された。しかしながら、貴族と聖職者の間で不人気であったバラーシュは、わずか4年間の統治後の488年に退位させられた。スフラはバラーシュの廃位において主要な役割を果たし、サーサーン朝の新しい王としてペーローズ1世の皇子のカワードを推戴した。ミスカワイヒ(1030年没)によれば、スフラはカワードの母方の叔父であった。
※この「背景とサーサーン朝の国家」の解説は、「カワード1世」の解説の一部です。
「背景とサーサーン朝の国家」を含む「カワード1世」の記事については、「カワード1世」の概要を参照ください。
- 背景とサーサーン朝の国家のページへのリンク