背景とバーンサイドの作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/04 10:22 UTC 版)
「フレデリックスバーグの戦い」の記事における「背景とバーンサイドの作戦」の解説
この戦闘はリーの小規模だがより好戦的な軍隊に対する戦いの中で北軍が主導権を取り戻そうとした結果として生まれた。バーンサイドは11月に、ジョージ・マクレラン少将に代わってポトマック軍指揮官に指名された。マクレランは9月のアンティータムの戦いでリーの侵攻を止めたが、エイブラハム・リンカーン大統領はメリーランド州でリー軍を追撃し撃滅できなかったのはマクレランが決断力を欠いているためであるとし、また大会戦の後で軍隊の編成替えや再装備に時間を過剰に費やしていると考えた。 リンカーンや総司令官ヘンリー・ハレック少将からせかされたバーンサイドは、秋も遅い攻撃を立案し、11月9日にハレックとその作戦について検討した。この作戦は素早い動きと偽装に頼っていた。まずバージニア州ウォーレントン近くに敵にも見える形で軍を集結させ、カルペパー・コートハウス、オレンジ・コートハウスおよびゴードンスビルに動く振りをする。次に軍隊を素早く南東に動かしラッパハノック川を越えてフレデリックスバーグに入る。このときリーがバーンサイドの意図を理解できずにじっと動かずにいることを期待して、北軍は急速にフレデリックスバーグからリッチモンド・フレデリックスバーグ・アンド・ポトマック鉄道に添って南のリッチモンドに向けて進軍する。バーンサイドは、もし彼がウォーレントンから直接に南に動けば、このときウィンチェスターの南、シェナンドー渓谷にいるストーンウォール・ジャクソンの軍団の側面攻撃に曝されることを心配していたので、この作戦を選んだ。バーンサイドはまた、オレンジ・アンド・アレクサンドリア鉄道が不適切な供給線だと考えた。バーンサイドがフレデリックスバーグに近いファルマスに補給基地を集め始めたときに、リンカーンの政府はバーンサイドの作戦の見識について長々と議論を続けていた。リンカーンはバーンサイドの作戦を最終的に承認したが、最速で動かなければならないと警告し、リーがバーンサイドの予測したように動くかについては実際に疑っていた。
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