耐久レース用エンジン本格開発へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 06:26 UTC 版)
「日産・VRH35」の記事における「耐久レース用エンジン本格開発へ」の解説
1987年、日産はR382用エンジンGRX-3以来のレース専用エンジンVEJ30を開発した。この新エンジンは1987年からの投入を見据えて、GRXの開発にも関与した技術車両設計部の石川義和を設計主任として開発された。きっかけはプリンス自動車工業出身の中川良一専務が、ニスモ社長の難波靖治に「スカイラインのエンジンを作った男に、レースエンジンをやらせよう」といったとのことである。しかし、R382の時のエンジンそのままの図面を書いてきたのを見て、難波は「このような重いエンジンじゃ困るな」と思ったという。実際に出来あがったそれは、大きく重いエンジンで、アルミブロックなどは大きすぎてニッサン系列の鋳物工場では手に負えず、ホイールメーカーにて作成された。エンジンの完成発表会ではすばらしいスペックを公表した。プレスリリースによれば「VG30と比較して、同じ燃料消費量で20%のパワーアップを実現。クーリングチャンネル付強制冷却フラット冠面ピストン、ナトリウム封入中空エキゾーストバルブなどによる出力と燃費の向上の両立。出力はブースト圧0.8バールの決勝設定で700馬力、1.8バールの予選設定では1,000馬力。」などである。しかし、馬力・トルク・燃費などの数値は机上の理論に過ぎず、中身の機構も複雑でトラブルを抱える可能性が高くなっており、耐久レースで戦えるようなまともなスペックのエンジンではなかった。しかし、日産が本気で耐久レースに挑戦しようとした、きっかけともいえるエンジンである。 その後、VEJ30を搭載したマシンが全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)に参戦したのだが、そのレース結果は散々なものであった。その後ニスモスタッフの手により様々な改良を受けたが、常用回転域が狭く、とても扱いづらいピーキーな特性のエンジンとなってしまった。 翌1988年、VEJ30は林義正に改良が委ねられる。当初林は「他人の作ったエンジンなど直せない」と拒絶したが、難波より「とにかく壊れないようにだけしてくれれば良いから」と懇願され改良を請け負った。VEJ30を見た林は「機構が複雑で古い設計のエンジンだと思った。部品点数が多くなれば壊れる箇所が増えるのに、それらを考慮した形跡が感じられなかった。まずは燃費を向上させるため、ヘッド周りを改良した」と当時を回想している。VEJ30のヘッドはバルブ挟み角が大きく、コンパクトな燃焼室で出力と燃費を両立するという、現代の設計思想には合っていないものだった。こうして林により様々な改良を受けてVRH30へと進化し、R88Cに搭載されレースへと投入された。また、1988年からはVRH35の新規開発がスタートした。 また、VRH30の改良型として1988年のJSPCのシーズン終わりごろに、3.4リットルまで排気量を拡大したVRH30Aエンジンを製作したが、上司にうるさく言われたためそのことは伏せられており、そのためVRH30Aエンジンは、通常なら排気量を表す二桁の数値が34ではなく30のままとなっている。 林は後に、林が所属する追浜の中央研究所と、VEJ30を開発した鶴見の技術車両設計部の間での対立があったことを明らかにしている。当初VEJ30の改良を手掛け始めた際も、鶴見の協力を全く得られないどころか、むしろ度々妨害を受けたとしており、上記のエンジン付番の問題も鶴見の干渉が背景にあったという。
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