編修の沿革とは? わかりやすく解説

編修の沿革

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 16:14 UTC 版)

復古記」の記事における「編修の沿革」の解説

明治5年1872年6月、『復古記編纂の命があり、同年10月4日太政官正院歴史課が設置され長松幹主幹として編修事業開始された。以後長松完成まで主幹をつとめる(以後編纂組織の変遷については、明治政府の修史事業の項も参照)。当初案では3編構成で、嘉永7年1853年)のペリー来航から大政奉還までを『前記』、大政奉還から東征大総督解任までを『本記』とし、戊辰戦争の各戦記を『外記』とする予定であった。ただし、『前記』の編纂行われず終わっている。 ところが1873年明治6年5月5日宮城火災で、すでに編纂されていた『復古記30余本と『復古外記20余本、および収集史料焼失してしまい、最初から編纂やり直しとなった1875年明治8年4月歴史課が修史局拡充される。『復古記』は第3課の担当となり、長松以下、長炗広瀬進一四屋恒之中村鼎五、藤川三渓平野知秋、沢渡広孝が『復古記』の編纂あたった1877年明治10年1月正院廃止により修史局太政官修史館改組され、『復古記』は第3局甲科担当となった1881年明治14年12月修史館職制改正で、六国史以後編年史(『大日本編年史』)編纂に力を集中するためとして『復古記』の編纂中止一時決定される。これに対し修史館監事長長幹は、翌1882年明治15年1月、同館総裁三条実美に対して事業継続求め意見書上申継続認められた。 1885年明治18年)『復古記』本記が完成1886年明治19年1月修史館廃止され内閣臨時修史局移管この後豊原資清が一人で『復古外記』の残り編纂続けることになる。 1888年明治21年10月内閣臨時修史局廃止帝国大学臨時編年史編纂掛移管1889年明治22年12月、『復古外記』が完成し16年8か月にわたる編纂事業終了した。なお、検閲には重野安繹川田剛巌谷修依田百川藤野正啓、久米邦武らがあたっている。 その後長く公刊されいままであったが、1929年 - 1931年昭和4 - 6年)、内外書籍から全15冊で公刊された。戦後1974年 - 1975年昭和49 - 50年)に東京大学出版会から再版されている。 『復古記』の原史料は未整理のまま東京大学史料編纂所保管されていたが、宮地正人らによる整理進められ1991年平成3年4月一般公開された。この際作業で、原史料からの引用の際、仮名遣い変更など若干修正加えられていることや、採録されなかった原史料が多数にのぼることなどが判明している。

※この「編修の沿革」の解説は、「復古記」の解説の一部です。
「編修の沿革」を含む「復古記」の記事については、「復古記」の概要を参照ください。

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