経営危機の表面化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 23:48 UTC 版)
1994年(平成6年)1月の『週刊現代』に「拓銀解体の衝撃シナリオ」と題する記事が掲載され、初めてマスコミから「危ない銀行」として明確に名指しされた。北海道からもバブル景気の波が完全に退潮となったこの年、拓銀が信用回復に乗り出そうとした矢先、本州では数十億円単位で預金を下ろす企業も現れた。同年4月、乱脈融資の中心となっていた総合開発部を廃止する。 同年末には、大蔵省から「決算承認銀行」の指定を言い渡され、金融当局の強い管理下に置かれることとなる。この事実は極秘事項となり、顧客・株主は勿論のこと、行員にも上層部を除いてほとんど知らされていなかった。翌1995年(平成7年)5月に発表した3月期決算では、設立以来95年で初の赤字に転落。夏にはムーディーズから、「非常に弱い財務内容・何らかの外部の支援を要する」とされるEランクの格付けを与えられた。 1996年(平成8年)末、報道機関の間には「大納会の後に拓銀が重大発表をする」、「近く業務停止命令が出る」など、不穏な噂が流れ始めた。年が明けた1997年(平成9年)になると、銀行株は軒並み安値を更新し、特に拓銀株は外資系証券会社から大量の空売りを浴びせられ、18年ぶりに株価200円を割った。大口の機関投資家を中心とした預金解約が始まるようになる。 2か月後のテレビ番組「サンデープロジェクト」で、銀行名は伏せながらも「株価から見て実質的に破綻」という発言が放送されると、不安は小口の一般利用者にまで広がり、翌月曜日だけで10億円以上の預金が解約される取り付け騒ぎとなった。預金流出と経営不安が負のスパイラルとなっていた。
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