経営危機からの教訓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 08:10 UTC 版)
湯元舘は過去に4度の経営危機を経験している。1回目-1967年(昭和42年)過剰な設備投資が原因であったが、1970年(昭和45年)の大阪万博特需で持ち直す。 2回目-大阪万博後すぐに来るが不動産売却でしのぐ。 3回目-1972年(昭和47年)資金繰り悪化から危機を迎え金庫に1000円札が2枚しかないというようなことすらあったが、この当時から隆盛した特殊浴場人気に助けられる。忙しくなってもローコスト経営を貫き3年間で短期借入金や、裏の借金もすべて返却した上、2000万円ほどの預金すらできる。 4回目-1976年(昭和51年)特殊浴場人気はこの年には早くも終了し、再び危機を迎える。この時、現会長である針谷了は当時経営者であった父針谷和雄に「もう替われ」と迫り、和雄はポケットから鍵の束を出すと了に渡しあっけなく禅譲が決まる。急速に新体制が社内に敷かれ、了が大学時代の5年間の営業経験からの発案で4800円、12品、5大サービス付(当時、関西の料理の基本は8品だった)という企画を打ち出すとその夏の売上が前年対比3割増加。その後、書物で「企業は人だ」という言葉にめぐり合ったことがきっかけで2名採用したところその後専務を務めることになる一人が獅子奮迅の働きを演じ、冬季の集客数で対前年比3倍、売り上げで2倍を達成する。連日満員状態が続き定員稼働率が90-100%という日が続く。 多くの危機の経験から、針谷了は「忘己利他」(もうこりた - 最澄の言葉)の経営理念に行きつく。その後、了はこうした経験を活かし全国で旅館経営についての講演を数多く行うなどしている。
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