第4、第5の哨戒 1945年5月 - 8月
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「セグンド (潜水艦)」の記事における「第4、第5の哨戒 1945年5月 - 8月」の解説
4月26日、セグンドは4回目の哨戒で東シナ海に向かった。この哨戒でセグンドは救助配備任務を命じられ、その後5月16日に東シナ海の任務海域を離脱した。5月29日、7隻の2本マストを持つ100トンほどのスクーナーに対して砲撃を行い、これらを撃沈した。その2日後の5月31日、1,250トンの4本マストを持つ船を発見し、2本の魚雷を発射。撃沈と判断された。6月3日には別の船を砲撃で撃沈。6月9日にも2隻の哨戒艇をこれも艦砲による砲撃で沈めた。6月11日、セグンドは北緯37度11分 東経123度23分 / 北緯37.183度 東経123.383度 / 37.183; 123.383の地点で第二福井丸(帝国汽船、1,591トン)を撃沈した。6月21日、セグンドは54日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投。艦長がステファン・L・ジョンソン(アナポリス1939年組)に代わった。 8月10日、セグンドは5回目の哨戒でオホーツク海方面に向かった。5日後の8月15日に戦争が終わり、セグンドは8月24日に東京湾へ向かう様命じられた。8月29日に日付が変わって間もなく、セグンドは三陸沖を南下中にレーダーで目標を探知した。4時過ぎには相手の艦影が見えるほどにまで接近。探照灯による発光信号『停船セヨ』を送った。相手は、ウルシー環礁奇襲を終戦で果たせず大湊に向かっていた伊401であり、終戦協定に定められた黒い気球と三角旗を掲揚していた。セグンドは伊401まで300メートルに接近し、あらぬ企てをすれば撃沈すると通告した上で数度の往来を行った。伊401は拿捕を受理し、セグンドと共に東京湾へ向かうことに合意した。2隻は8月31日に相模湾に入り、5時をもって星条旗が伊401に掲揚された。この時、伊401に座乗していた第一潜水戦隊司令有泉龍之助大佐(兵51期)が自室で自決し、セグンドに気付かれないよう水葬した。ただし有泉の自決日は8月29日とする資料もある(『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』では8月29日、半藤一利著『戦死の遺書』文春文庫1995年では8月31日)。相模湾に入ってから、伊401の誘導役を駆逐艦に譲ったセグンドは、9月2日の日本の降伏文書調印式典に他の潜水艦11隻と共に参列した。式典翌日の9月3日に東京湾を出港。9月12日、セグンドは30日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。セグンドは伊401の拿捕により、「捕獲」という戦果を持つ潜水艦となった。
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