第17回総選挙への出馬
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1933年における棚橋一家。後列右から棚橋・二女の鞠子を妊娠中の孝子、前列右から長男の泰助(のちに東京都議会議員)・次男の雄三・三男の五郎・長女の郁子。 1929年2月4日、前年に成立した無産政党合同に伴って各政党の支持団体となっていた労働団体の合同が決定していた関係で、合同後の組織で優位を得るために、日本労働組合同盟中央執行委員会の席上、淡路から東京への移転を公約させられた。これには同盟に参加していた山名義鶴や上条愛一らが動いており、棚橋を次の総選挙で東京第4区から出馬させる目的があった。3月6日から東京府会議員選挙と神奈川県会議員選挙の応援に赴いたが、淡路に戻った後に連日の高熱に浮かされた。診断の結果、腸チフスと診断され、5月29日には治癒したが体重は10貫9,000匁(約45kg)にまで減少していた。7月23日、棚橋は洲本で第1回大衆講座を開催した。講師には河上丈太郎を迎え、洲本における労働教育の場の創設となった。この大衆講座は8月14日に第2回を開催し、講師には松沢兼人(のち日本社会党衆議院議員・参議院議員)と杉山元治郎を迎えた。この間、8月8日に神戸で兵庫県第2区から総選挙に立候補する意思を表明した。これは6月の段階で田中義一内閣の総辞職を受けて成立した濱口雄幸内閣が衆議院解散をすることを予想して動いたものであった。しかし、棚橋は2月に既に東京移住を公約している関係で、山名はこれに反対した。しかし、棚橋は「もし立候補となれば、落選の場合を想定すれば、次回の総選挙にこの選挙区で立候補する以外に道はない。しからば当分、東京移住は不可能だし、その結果同盟会長を辞任するほかはない」として、兵庫県第2区からの立候補を決め、山名はこれを止めないこととなった。1930年1月4日、棚橋は阪本勝方で兵庫県第2区からの立候補を正式に表明し、2月20日の衆議院解散を受けて選挙戦を開始した。選挙事務長は阪本勝として、選挙地盤の尼崎市・西宮市・武庫郡・川辺郡・有馬郡は藤岡文六が、津名郡・三原郡は労働同盟書記の岩井伊久太が担当することとした。しかし、選挙資金不足は著しい状態であり開票の結果、得票は4,148票で下位から2位の惨敗であった。この選挙戦の間も労働組合の合同問題の話は進んでおり、選挙後の5月8日に上条と話した際に合同成立前に状況移転がない場合は合同成立後の推薦は難しい旨が伝えられた。これを受け棚橋は、5月14日に上京して麻生・山名・上条と会談して合同後の組織の会長は断念することを伝えた。5月31日、日本労働組合同盟と労働組合全国同盟は合同委員会を開催して棚橋は議長を務めたが、翌日開催された合同大会において会長には大矢省三(のち衆議院議員)が就任した。総選挙における惨敗と組合同盟会長辞職ののち、棚橋は中央から徐々に後退し、また交友上においても麻生・山名・岸井・上条・阪本などとの関係が気まずい関係になっていった。 1936年3月2日、棚橋は洲本町会議員に三選を果たす。しかし、三選を果たしたものの棚橋はこの以前から「自分としても選挙区を持たねばならない」という考えから松本への帰郷を考えるようになった。10月に棚橋は遂に松本への帰郷を決意してまず、長男・泰助を松本中学校へ転校させた後、11月22日に淡路を発って松本へ移転した。11月26日には弁護士事務所の看板を出し、松本における生活を開始した。
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