第11、第12の哨戒 1943年12月 - 1944年5月
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「スレッシャー (潜水艦)」の記事における「第11、第12の哨戒 1943年12月 - 1944年5月」の解説
12月27日、スレッシャーは11回目の哨戒で東シナ海に向かった。1944年1月10日、スレッシャーはマストを見つけて潜航。よく観測すると、相手は漁船であった。スレッシャーは浮上し、距離5,500メートルで射撃を開始。5インチ砲弾45発、12.7ミリ機銃1000発、20ミリ機銃770発を費やして撃沈した。スレッシャーはルソン海峡に移動したあと、1月15日11時43分に空母のような船と護衛艦を発見し、魚雷を発射した。護衛艦の反撃があったものの、2時間に及ぶ爆雷攻撃をしのいだ。17時ごろに潜望鏡深度に戻ってみると、護衛艦がいる4隻の輸送船団を発見。この船団は、マニラから高雄に向かっていた第882船団であった。スレッシャーは19時11分に浮上し、船団を追跡。深夜になって攻撃を開始し、まず応急タンカー龍野丸(日本郵船、7,296トン)に対し魚雷を4本発射。うち2本が龍野丸の船倉に命中し、船体を真っ二つにした。二分された龍野丸の船体は、前半部が急速に沈んでいき、後半部は2日かかって沈没した。スレッシャーは次に二番船の陸軍船東宝丸(北海汽船、4,092トン)に対して魚雷を3本発射。2本が東宝丸の左舷に命中し、東宝丸は備砲で反撃したものの、爆発を起こして沈没していった。スレッシャーは3番目の目標を5インチ砲で攻撃しようとしたが、護衛の水雷艇友鶴が向かってきたので潜航。友鶴は20発の爆雷を投下したが、スレッシャーには損害を与えなかった。1月26日、スレッシャーは北緯22度10分 東経119度30分 / 北緯22.167度 東経119.500度 / 22.167; 119.500の地点でレーダーで第356船団を探知。曇天の夜だったが、相手が来るのを待ち続けた。日付が変わって1月27日0時11分、スレッシャーは輸送船菊月丸(南日本汽船、1,266トン)に向けて魚雷を3本発射。魚雷は命中し菊月丸は35秒で沈没していった。間髪入れず2番目の目標である特設運送船幸成丸(三井船舶、2,205トン)に対して5インチ砲を射撃。この間に3番目の目標は南に向かって逃げていった。スレッシャーは幸成丸を追撃し、最後に残った魚雷を発射。魚雷は船尾に命中し、すさまじい爆発はスレッシャーにも影響を与えた。主機には安全装置がかかり、断熱材やライトは壊れた。さらに、護衛艦が向かってくることも予想された。スレッシャーは改定で3時間もの間、息を潜めていた。その後、スレッシャーは1月28日から29日にかけて台湾とパラオ間の航路を哨戒しつつ東に向かい、ミッドウェー島に寄港した。2月18日、スレッシャーは54日間の行動を終えて真珠湾に帰投。この哨戒での活躍が評価され、マクミラン艦長に海軍十字章が授与された。 3月18日、スレッシャーは12回目の哨戒でトラック諸島方面に向かった。この哨戒では、トラックを空襲する航空部隊の救助任務を担当した。4月11日にはオロルック環礁(英語版)を艦砲射撃して写真偵察も行い、4月17日と18日にはサタワン環礁を偵察した。哨戒中、2隻の敵艦を目撃したが攻撃できなかった。5月8日、スレッシャーは51日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。
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