第11、第12の哨戒 1943年10月 - 1944年1月
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「シーウルフ (サーゴ級潜水艦)」の記事における「第11、第12の哨戒 1943年10月 - 1944年1月」の解説
10月5日、シーウルフは11回目の哨戒で東シナ海、台湾海峡方面に向かった。10月29日、シーウルフは北緯22度30分 東経115度25分 / 北緯22.500度 東経115.417度 / 22.500; 115.417の広東省汕頭近海で輸送船蕪湖丸(東亜海運、3,222トン)を撃沈。11月4日には北緯21度22分 東経113度20分 / 北緯21.367度 東経113.333度 / 21.367; 113.333の香港南方で輸送船海福丸(大阪商船、3,178トン)を撃沈した。11月9日、シーウルフは6隻の輸送船からなるヒ14船団を発見し、タンカーあまつ丸(日本海運、10,567トン)などに対して三度にわたって攻撃したが、戦果はなかった。11月27日、シーウルフは53日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。 12月22日、シーウルフは12回目の哨戒で東シナ海に向かった。この哨戒はシーウルフにとって最も戦果を挙げた哨戒となった。1944年1月10日、シーウルフは北緯27度32分 東経127度25分 / 北緯27.533度 東経127.417度 / 27.533; 127.417の与論島近海で、高雄に向かう127船団を発見。昼過ぎに2隻の陸軍船、飛鳥丸(日本郵船、7,527トン)と弥彦丸(板谷商船、5,747トン)に向けて魚雷を発射し、飛鳥丸は右舷に魚雷が命中して10分で沈没。弥彦丸は船尾に魚雷が命中し航行不能となった。弥彦丸は修理の上航行を再開したものの、故障が生じてこれ以上の航行が不可能となり、僚船の輸送船月洋丸(東洋汽船、6,440トン)が曳航することとなった。シーウルフは深夜になって曳航準備中の月洋丸と曳航されていた弥彦丸に接近し、両船に魚雷を命中させて撃沈した。1月14日夜、シーウルフは北緯28度25分 東経133度30分 / 北緯28.417度 東経133.500度 / 28.417; 133.500の種子島近海で、パラオに向かうオ105船団を発見。シーウルフは最後の魚雷4本を船団中の2隻の商船に向けて発射、応急タンカー山鶴丸(山下汽船、2,552トン)を撃沈し、もう1隻を撃破したかのように見えた。シーウルフは魚雷が底をついたので船団を追跡しつつ、その位置を近在のホエール (USS Whale, SS-239) に無線連絡した。ホエールは1月16日に到着し攻撃を開始、陸軍輸送船丁抹(でんまーく)丸(白洋汽船、5,869トン)を撃沈した。一方、シーウルフは特設運送船たるしま丸(浜根汽船、4,865トン)に対して砲撃を行ったが沈めきれず、翌朝ホエールはシーウルフからの情報に基づいて、たるしま丸を始末し戦闘は終了した。1月27日、シーウルフは36日間の行動を終えて真珠湾に帰投。2日後にカリフォルニア州サンフランシスコに向けて出航し、ハンターズ・ポイント海軍造船所で2度目のオーバーホールに入り、作業終了後、5月16日に出航して真珠湾に到着した。オーバーホールの間に、艦長がリチャード・B・リンチ少佐(アナポリス1935年組)に代わった。
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