第11、第12の哨戒 1945年5月 - 8月
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/06 03:55 UTC 版)
「ティノサ (潜水艦)」の記事における「第11、第12の哨戒 1945年5月 - 8月」の解説
5月29日、ティノサは9回目の哨戒でバーニー作戦に参加して日本海に向かった。このバーニー作戦は、この時点の日本に残されたほぼ唯一の重要航路に打撃を与えるものであり、対馬海峡の機雷原突破と日本海を悠然と航行する日本船は、目標の減少に嘆いていた潜水艦部隊にとっては絶好のスリルであり獲物であった。この作戦には9隻の潜水艦が投入され「ヘルキャッツ」 Hellcats と命名された。各潜水艦は三群に分けられ、シードッグ (USS Sea Dog, SS-401) 艦長のアール・T・ハイデマン少佐(アナポリス1932年組)が総司令となった。フライングフィッシュはボーフィン (USS Bowfin, SS-287) 、ティノサ (USS Tinosa, SS-283) と共にウルフパック「リッサーズ・ボブキャッツ」Risser's Bobcats を組み、第一陣「ハイデマンズ・ヘップキャッツ」 Hydeman's Hep Cats が5月27日に出撃してから48時間後に出航し、対馬海峡に進出した。対馬海峡に向かう途中、ティノサは九州南方海上で救命ボートに乗って漂流するB-29の10名のパイロットを発見。しかし、パイロットたちはティノサの幹部から作戦の内容を告げられると「ティノサから去る」と言い、救命ボートに戻っていった。 リレー式に対馬海峡を突破したシードッグ以下の潜水艦は三群それぞれの担当海域に向かい、6月9日日の出時の攻撃開始を待った。「リッサーズ・ボブキャッツ」は朝鮮半島東岸に進出した。作戦初日の6月9日、ティノサは北緯37度30分 東経129度30分 / 北緯37.500度 東経129.500度 / 37.500; 129.500の江原道三陟沖で輸送船若玉丸(若井商船、2,211トン)を発見し、魚雷を3本発射して1本を命中させ撃沈。翌6月10日夜にも北緯29度08分 東経129度43分 / 北緯29.133度 東経129.717度 / 29.133; 129.717の地点で4,000トン級輸送船を発見し、魚雷を4本発射して1本が命中したが不発に終わり、逆に爆雷攻撃を受けた。6月12日には北緯37度47分 東経129度10分 / 北緯37.783度 東経129.167度 / 37.783; 129.167の朝鮮半島注文津沖で輸送船啓東丸(東亜海運、873トン)を発見し、浮上砲戦で撃沈した。6月18日にも北緯28度33分 東経128度36分 / 北緯28.550度 東経128.600度 / 28.550; 128.600の地点で11,000ヤード離れた目標に対して魚雷を3本発射したが命中せず、もう2本発射したが結果は同じであった。6月20日明け方には北緯35度39分 東経130度29分 / 北緯35.650度 東経130.483度 / 35.650; 130.483の地点で4,500トン級輸送船を発見し、魚雷を3本発射して3本とも命中させて撃沈。夕方に入り、3,700トン級輸送船を発見して魚雷を4本発射し、2本を命中させて撃沈した。ティノサはこの日の二度の攻撃で2隻の輸送船、大図丸(大図汽船、2,726トン)と会盛丸(会陽汽船、880トン)を撃沈した。ティノサは僚艦とともに、6月24日夜に宗谷海峡西側に到着。6月19日に富山湾で討ち取られたボーンフィッシュ (USS Bonefish, SS-223) 以外の、シードッグ以下の各潜水艦は翌25日正午に濃霧の中を二列縦陣、浮上航行で海峡を通過し、オホーツク海に入った。7月4日のアメリカ独立記念日、ティノサは37日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。 8月11日、ティノサは12回目の哨戒で出撃したが8月15日の終戦により、翌16日にミッドウェー島に帰投した。
※この「第11、第12の哨戒 1945年5月 - 8月」の解説は、「ティノサ (潜水艦)」の解説の一部です。
「第11、第12の哨戒 1945年5月 - 8月」を含む「ティノサ (潜水艦)」の記事については、「ティノサ (潜水艦)」の概要を参照ください。
- 第11、第12の哨戒 1945年5月 - 8月のページへのリンク