第1回(1987年)FNSスーパースペシャル 一億人のテレビ夢列島
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1987年7月18日21:00 - 翌日19日20:54 総合司会はタモリと明石家さんまで、テーマは「夢家族」。系列局が推薦する全国24の"夢家族"をタレントたちが生中継で訪問する企画がメインであった。また、その夢家族を紹介するVTRをタモリ・さんま・ゲストが見て「松竹梅」で判定するコーナーもあった。タモリとさんまの起用は『森田一義アワー 笑っていいとも!』と『オレたちひょうきん族』のスタッフの意向という。 放送開始直前まで中継していた大洋×巨人戦の試合が伸びたため、本編内でも一部中継を行った。実況は古舘伊知郎と松倉悦郎。解説は江本孟紀と谷沢健一。中継途中には、番組最初のゲストとして少年隊の錦織一清と東山紀之がスタジオに登場した(植草克秀は足の打撲のため不在)。 土曜深夜のトークコーナーで、フライデー襲撃事件で謹慎中だったビートたけしがテレビ復帰を果たす。お笑いBIG3が1986年9月5日放送の『笑っていいとも!』オープニング以来の共演を果たした。 土曜日の深夜から早朝には、女優の石原真理子がゲストとして出演。タモリ・さんまとの絶妙なトークを繰り広げた。石原は1986年9月26日、『笑っていいとも!』に藤田弓子からの紹介で「テレフォンショッキング」のゲストとして出演したが、さんまのリクエストによりスタジオに残り、その後の曜日コーナーだった「さんま・タモリの日本一の最低男」にもゲストとして登場。石原の機転が利くリアクションやジョークが視聴者に受け、石原はこれを機に当時としては珍しい女優業からバラエティへ進出した。その後、石原は1986年末の『笑っていいとも!特大号』にもゲスト出演し、その流れを受けて『夢列島』にも石原が出演する形となった。 放送開始から約2時間後に、『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』と勘違いした視聴者からビンに小銭が詰まった募金が届いてしまうハプニングがあった。タモリが「この番組は、チャリティーではありません!」と喚起した。その後、さんまが「日テレに持って行きます」と言い、小堺が当時『24時間テレビ』に出演していた萩本欽一のものまね(当時の企画『欽ちゃんのふれ愛の旅』のパロディで、さんまが募金を持って来た一般人役)をした。 土曜深夜には『テレビくん、どうも!』のスペシャルや『ゲゲゲのサンコン夜は墓場でサンコン探し』、プロボクサーがお悩み解決をする『夜明けの電話相談室』が放送された。 日曜早朝には神宮球場にさんまが赴いて、球場に集まった視聴者と古館伊知郎・森末慎二と共に中継で『一万人のラジオ体操』(ラジオ体操第一)を行った。このラジオ体操のコーナーは第3回(1989年)まで続いた。 この年は、番宣CM、提供クレジットなどにおいて星形のステッキを持ったふくろうを模したキャラクターが登場した。 テーマ曲として松田聖子「夢のクレッセントムーン」(Boy Meets Girlの「Waiting for a Star to Fall」のカバー。放送直前の番宣CMやエンディングで歌付きのものが、インフォメーションでインスト版が使われたものの、レコード・CDなどの音源化は今日まで一切されていない。)が起用された。CM前のジングルには、佐藤博「Sweet Inspiration (Extended Power Club Mix)」の5分56秒の部分(第2回(1988年)でも起用)などが使用された。 終盤にこの年の新人アナウンサー(青木美枝・笠井信輔・塩原恒夫・中井美穂)が24時間の提供スポンサーを生で読み上げた。これは恒例行事となって、その後も続いている(番組の大部分が収録放送となった2017年、2018年度も継続)。
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