第1作『ムーミン谷の彗星』実現まで
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『ムーミン』の原作者であるトーベ・ヤンソンは、舞台芸術にも深い関心を寄せた人物であった。実際に舞台の美術や衣装のデザインも手掛けていて、1952年にはユリヨ・コッコ(en:Yrjö Kokko)原作の『羽根をなくした妖精』(原題:Pessi ja Illusia)というバレエ作品の舞台美術と衣装のデザインを担当した経験もあった。 舞台化としては『ムーミン』の芝居(ムーミントロールと彗星)が1949年に実現していて、その後断続的に上演が続いている。1974年には子供向けのオペラが誕生し、人形劇やコンテンポラリーダンスでも題材となっていた。ただし、『ムーミン』がバレエになるには2015年まで待たなければならなかった。 バレエ化の障壁となったのは、『ムーミン』の物語が持つ「名言だらけ」とも表現される豊かな言葉の魅力が使えないことであった。さらに着ぐるみのダンサーではバレエの表現で重要な顔の表情が出せない上に動きや行動に制約が課せられるため、劇的な舞踊表現の創造が可能かどうか疑問を持たれていた。 ムーミンのバレエ化を発案したのは、フィンランド国立バレエ団芸術監督のケネス・グレーヴであった。グレーヴは2010年代の初め、物語を繰り返し読むうちに「ムーミンにヒントを得た作品を作りたい」との閃きを得ていた。彼にはフィンランドのバレエに対する理解を深めること、若いダンサーの育成、子供たちを劇場にいざなうことなどいくつかの構想があり、ムーミンのバレエ化もその延長線上にあった。 グレーヴは当初、「ムーミンがバレエに恋をする」という新たな物語を考えていたものの、ヤンソンの著作権を管理するソフィア・ヤンソンから「話やキャラクターを新たにつくるのではなく、オリジナルを尊重してほしい」との要請を受けたという。 ムーミンに関する作品については、ムーミンの商品権などを管理するムーミン・キャラクターズ社の許可も必要だった。ムーミン・キャラクターズ社の検討する内容は、「トーベ・ヤンソンのムーミン世界を踏襲しているか、美術や小道具は挿絵に忠実か、着ぐるみはそれぞれのキャラクターの基準を満たしているか」など細部まで多岐にわたっていた。 バレエ化の許可を得るため、「できる限り原作に忠実にいこう」という方針で話が進んだ。世界初となる『ムーミン・バレエ』では、『ムーミン谷の彗星』(原題:Kometen kommer、1946年、1956年改訂・1968年三訂)が題材に選ばれた。『ムーミン谷の彗星』は、劇場版のアニメーションも制作されるなど『ムーミン・シリーズ』の中では知名度が高い話であった。 2015年の初演では、振付家としては無名のアナンダ・コノネンというバレエ団所属ダンサーが作品の振付を担当したが、全公演がソールド・アウトになる成功を収めた。『ムーミン谷の彗星』は4歳以上が入場可能な公演として制作されたため、客席のあちこちでは「子供たちの嬉しそうな声があちこちから聞こえてくる」光景が見られ、好評を持って迎えられた。
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